僕が一度も子供たちの「成績表」を見たことが無い理由とは?
日本には「義務教育」という言葉がある。しかし今日、この「義務教育」という言葉が、僕たち親と子供たちとの人間関係の中で様々な問題を生み出す根源となっている場合が多い。
その代表的なものが、
親:「義務教育!国民の義務なんだから、しっかりと勉強しなさいよ!」
・・・と、子供たちに勉強を強要することである。その結果、子供たちが親から強制される形で、「しなければない」状態で、勉強をし続けているのである。
実は、地方公務員教員職一筋の、孔明ママから、僕と孔明弟が小・中学生時代に、言われ続けていたことでもあるのだが。当時の僕は・・・
孔明:「はーい!分かりましたー!」
・・・と言いながら、子供部屋で机に向かいながらも、孔明ママが部屋を去った後は、再び漫画を取り出したり、椅子をくるりとテレビの方に反転させてドラクエの続きを、プレイしていたりした。
僕は内心、孔明ママが言う「義務教育」という言葉に、当時から嫌悪感というか、疑問を思っていた。・・・という、僕自身が創り出した、大義名分と共に、結果的に勉強は「したふり」しかしなかったわけだ。
しかし、今日、この「義務教育」という概念が独り歩きしてしまい。親と子供、両方を苦しめ続けていることが分かる。
特に孔明ママのように、仕事で忙しくて、普段家にいない両親ならば、いくら夜帰ってきて、「勉強しなさい!」と騒いだところで、僕たちとしては余裕がありすぎる。
昼間に同級生の男たちを自宅に呼んで、安藤クンがパパからコッソリ盗んできた、「完全無修正の裏ビデオ」を、僕の自宅で音量付きで堂々と上映会を行う余裕さえあったのだから。
けれども、専業主婦とか、専業主夫とかで、両親が家にみっちりついている形で、子供たちに「勉強しなさい!」を言い続けてしまうと、それこそお互いにとって逃げ場が無くなってしまい、、当然ながら人間関係にまつわる、問題が発生する。
そこで、「俯瞰レベル」を一つ上げる形で、子供たちの教育「義務教育」について、言語化してみたいと思う。
日本国憲法第26条「義務教育」
日本国憲法第26条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
義務教育は、これを無償とする。
・・・と日本国憲法に定められている。「教育を受けさせる義務」とよばれ、
- 教育の義務(26条2項)
- 勤労の義務(27条1項)
- 納税の義務(30条)
国民三大義務の一つである。ここで、一度頭を真っ白にする形で、日本国憲法を正確に読み直して見よう。
よくよく条文の読解を深めて行くと、
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
・・・この中には、教育を受ける自由としての権利「学習権」。国家に対して合理的な教育制度・施設を設け、適正な教育の場を提供させる「社会権」。2つの側面が存在する。
その内、僕たち親に直接関係するのは、教育を受ける権利として、子供たちの「学習権」の保証。
「一個の人間として、また、一市民として、成長、発育し、自己の人格を完成、実現させるために必要な学習をする権利を有すること、特に、自ら学習することができない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利」
が保証されているということだ。続ける形で、「義務」が明記されている部分。
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」
・・・とある。つまり、教育を受ける「義務」というものは、僕たち親にも子供たちにも存在していない。
あくまでも、僕たち親が子供たちに「教育機会」を与える「義務」があり。子供たちは、僕たち親から与えてもらった「教育機会」を活用して、教育を受ける「権利」があるということだ。
まとめると・・・
- 子供に教育をする義務があるのではない。
- 僕たち親が子供たちに教育機会を与える義務がある。
- 親側に対してのみ教育上の義務がある。
・・・ということは、俯瞰レベルを上げて考えて見れば、「子供の教育」ということに関しては、僕たち親は、子供たちに「教育機会」を与えるだけ・・・「勉強しなさい!」と、強要するのはおかしいことであるとも言える。
・・・子供たちが勉強をすることが、義務ではなく、権利であるのなら、やはり子供たちの教育に関しても、大人同様に、「しなければならない」化するのは、子供たちが力を発揮できず、勿体無いことになると思う。
国民の義務として、親が子供たちに対して、「教育機会」だけは与えるが、子供たちにとっての、「やりたいこと」だけを、やってもらうこと。
僕たち親がすることは、子供たちが自分の「やりたいこと」を探し出してもらい、「やりたいこと」に夢中になってもらうため、「やりたいこと発見」の、お手伝いをそっとしてあげれば良いだけということになるのではないだろうか?
だから、もしも・・・国民の義務「義務教育」を、間違って理解してしまっていたとしたら、今日からその「呪縛」を解き放ち。子供たちにも、「しなければならない」ことはやめさせて、「やりたいこと」だけに、夢中になってもらっても良いのである。
「やりたいこと」をやる時の目の輝き
実は僕たち親は、みんな気づいていて、気づいていないフリをしている場合が多いのかもしれない。
子供たちが、「しなければならない」ことをやっている時の、やる気のない表情、先に進まない進行速度、まったく吸収しない、すぐに間違えたりミスしたりしてしまう状態。
「しなければならないこと」をやろうとしている時の子供たちの目は暗く淀んでしまっていることを・・・。
逆に、子供たちが、「やりたいこと」をやっている時の、やる気に満ち溢れた表情、親が言うまでもなく、ドンドン先に進む進行速度、次々に吸収し知識・スキル、ミスしたとしても、すぐにミスしなくなる軌道修正力。
「やりたいこと」をやっている時の子供たちの目は、爛々と光り輝いていることを・・・。
子供たちだからと言って、いや、子供たちだからこそ、「しなければならない」ことをつくり強要させるのではなく、「やりたいこと」だけを、やらせる、その機会を与えるのが、僕たち親の義務なのだ。
別の角度から・・・僕たち親と、子供たちとの、人間関係を考えてみよう。
僕が重要だと思うことは、子供たちは、僕たち親の「所有物」ではないということだ。
確かに子供たちは、僕たち親から生まれて来て、子供たちから親に、「この世に産んでくれてありがとう!」と言われる立場かもしれないけれど。
「手のひらを表と裏」にひっくり返せば、子供たちが生まれてきてくれたから、僕たちはただの人から親になれたのだ。
親から子供たちに、「この世に生まれてきてくれて 僕を親にしてくれてありがとう!」と言う立場でもあるのだ。
親がいない子供はいない。子供は必ず男女のペアから生まれるのだから。子供がいない親はいない。子供がいることで、親は親になれるのだから。
俯瞰レベルを上げて考えて見ると、親と子供の人間関係は本来、子供が親から生まれた瞬間から対等なのだ。
その相対関係と、教育との関係に関しては・・・日本国憲法でも、
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」
・・・という形で、正しく言語化されている。これを勝手に間違えた解釈をしているのは、往々にして僕たち親の方である可能性が高いのだ。
僕が一度も子供たちの「成績表」を見たことが無い理由
ちなみに僕の場合は、子供たちに「勉強しなさい!」という言葉の類を言ったことが無い。なぜなら、孔明ママが昔、僕と孔明弟に対して、毎日のように「勉強しなさい!」を
言い続けてきたけど、まったく無駄だったということが、記憶に強く残っているからだ。
だから僕は、「日本国憲法第26条」に則る形で、親の義務として、子供たちに教育を受ける権利を行使してもらうために、あくまでも親として、子供たちに対して「教育機会」だけを、与え続けるようにしている。
僕のこの信念はかなり徹底していて、いまだかつて、ただの一度足りとも、子供たちの「成績表」を見たことがない。
子供たちの他人からの評価を目にしてしまうことで、そこに羅列されている数字やコメントから、僕たち親が勝手に、子供たちの「良い悪い」の判断をしてしまい。ついつい反応的に、「悪いところを補わせよう!」とかいう思考が働いてしまい、「◯◯勉強しなさい!」と、結局孔明ママと同じようなことを、言い続けてしまう恐れがあるからだ。
だから、最初から、他人が子供たちにつけた評価である、「成績表」などというものには、一度たりとも目を通さないと、固く決めているのである。
ここ数年間は、子供たちの学校行事にも行ったことがない。個人面談も行かない。もしも子供たちが「パパ来て」と、それを求めれば行くが、求めないからだ。
その代わり、子供たちが、「パパ、見て!見て!」と、持ってきたものだけをしっかりと見るようにしている。
なぜならそれは、こどもたちにとって、「やりたいこと」であった可能性が非常に高いからだ。
子供たちが参加する女性がお話するセミナー
長女:「パパ、それ行きたい!ありがとう!!」
・・・思春期真っ只中の長女が目を輝かせて言ってくれた。実は、つい最近、Facebook&リアル友達である、マレーシア・ジョホールバル王族御用達日本料理レストラン、「赤富士」のオーナー北爪氏が、「脳開発」のスペシャリストを自分のレストランに招待して、セミナーを行ってくださるということで、「招待」を受け取ったので、娘たちに行くかどうか聞いてみたのだ。
僕自身も今、情報時空と物理時空の相対関係の絡みで、「脳」の機能に関しては、めちゃくちゃ興味があるし。。
もう一点、長女はこれまで、
- 「北のセオリー」セミナー:4時間
- 「門学」セミナー:24時間
僕がお話するセミナーにしか参加したことが無い。また、子供たちが疲れていない時、食事中やカフェの時に、「孔明パパタイム」として、
- 北のセオリー
- 門学
- 手のひらの表と裏
- 情報時空と物理時空
・・・など、子供たちが興味ありそうな、「世の中の真実」的な、トピックを抜粋して、お話したりしているが。動物行動学上、いくら子供たちが興味を抱いてくれていることとは言え、実の両親から教わるよりも、他人から教わる方が、子供たちは何倍もよく学習する・・・という機能が人間にはある。
また、「脳」は長女が深く興味を持っているトピックの一つでもあるので、行くかどうか、聞いてみたのだ。
ちなみに次女は、
次女:「えええ、めんどくせーなー!」
・・・と、月官門らしく、悪態と共に斜に構えているが、一応ついてきてもらう予定。
孔明パパ:「しかも今回は、女性の著者の方が、お話してくれるらしいよ!」
・・・ということで、長女の方は、かなり興味を持ってくれている。
「女性も社会でこういう形で、活躍できるんだ・・・」
と実際に体感してもらうことで、目標(夢・ゴール)のお手伝いになればいいなと、孔明パパとしては何となく考えている。
このように、「俯瞰レベル」を上げて考えると、子供たちの人生の中で、「しなければならない」ことを、避けながら、子供たちが心の奥底から「やりたいこと」が、いくつ見つかるか?
子供たちが、「灼熱のモチベーション」を持って、臨めることがいくつ見つかるか?
これこそが、本質的に親に課せられた、親の「教育機会」提供の義務だと思うから。。
子供たちの目標(夢・ゴール)発見の「教育機会」提供
親として・・・親がいるから子供 子供がいるから親この対等な人間関係の中で、子供たちを一人の「人格」として、尊重をした上で、子供たちの人生の目標(夢・ゴール)を探すサポートを「教育機会」提供という形でしてあげる。
まだ、子供のうちなので、子供たちも、それぞれの目標(夢・ゴール)は、漠然としか分からいだろう。それはそれで良いと思う。
子供たちが、将来「やりたいこと」。
- なりたい職業。
- やりたい仕事。
- やりたい趣味。
- 恋愛したい相手。
・・・など。これは子供たちが、自分の成長の過程で、段々と決めていくことであり。親はあくまでも、親として生きている限り、自分が子供たちに割けるお金・時間・労力がある限り、「教育機会」を提供し続ける。
・・・という形で、「子供の教育」について、俯瞰レベルを上げる形で、言語化させて頂いた。当然ながら、家庭それぞれの、考え方・方針というものがあり、どのような親と子供との人間関係があり、親と子供がどのように教育に対して向き合うかは家庭それぞれの自由。
だから、僕は何が正しいかどうかということを論じているわけではなく、日本国憲法で定めるところの「義務」と、僕が考える「子供の教育」という部分を、俯瞰レベルを上げた状態で、論じているに過ぎないので、あくまでも、こういう考え方もあるのだな・・・というご参考までに。
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…