「私が今はじめて楽してもうかる商売はありますか?」
「私が今はじめて簡単にもうかる投資はありますか?」
多くのビジネスマンと個別面談をしたり、飲み会などでご一緒して行く中で。
大多数の方々は常に、「今儲かる商売や投資案件は何なのか?」情報を追い求めさまよい続けていることに気づく。
それはどうしてなのだろうか?
かくいう僕自身、かつて億単位の「飛んでイスタンブール」を経験した前後。
常に「美味しい情報」を探し求め続けて、あっちの平原でじゃがいもが採れると聞けば平原に行って、じゃがいもをひたすら摂りまくる。
あっちの山にイノシシが出ると聞けば、山に入ってイノシシを狩りまくる。
そんなような日々を送っていた。
すると、毎日、毎日、自分の身体と共に、沢山のお金が出たり入ったりせわしなく動きまくる。
毎日、毎日が、心も身体もとてもとても忙しい。
けれども、どこか不安のようなものが、心の中に残り続け、顔と身体はドンドン固くこわばって行く。
そんな状態の最中、ファーザーから頂戴した御言葉。
「動くな、働くな、何をするかゆっくり考えろ」
「オレが商売をはじめた時の元本は妻と結婚したご祝儀でもらった10万円だけ。最後に10万円以上残ってればオレの人生は黒字。だからタンスの中には、10万円だけ置いている。」と。
「前にあるお金を追い求めるな。お金は、自分の後ろからゆっくりとついて来てくれるもの。」・・・と。
「何をおっしゃっているのか?」
あの当時の僕は分かったようで、言葉としては理解できたが、本質的に分かっていない状態だった。
けれども、今日ではようやく、その言葉の意味を、肌が感じるようになった。
東洋の古の訓えの中に、
「日計して足らざるも、歳計して余りあり(by壮士)」
という言葉がある。
とある若者が、北の岩石のデコボコした山に住居を構えた。
最初は頭のおかしい人だと皆が言っていたが、3年ほどたったころに、豊作に恵まれるようになった・・・と。
すると民は言う。
「私たちが1日1日で勘定するとまったく足りてない(赤字)。
しかし、結果の集計を見れば余りがある(黒字)。
きっと聖人に近い人なのだろう。君主として尊ぼう。」と。
両目の中に円マークが浮き上がるほど、躍起になって動き回り、働き続けたあの頃の僕は、この偉大な若者とは真逆の考え方と動き方をしていたに違いない。
なんでそんなことになってしまったのか?
今冷静に分析してみると、
「お金を沢山稼いで、お金持ちになりたい!」
・・という目標はあったのだろうけど。
「僕の人生はこうありたい!」という自分のシアワセ感に基づいた、「志(こころざし)」に基づいた目標というものがなかったことが分かる。
すると、ただ単に、「金融資本主義だから、お金を稼ぎまくることが大切!」と
1日1日の営みでの、目先の「実り」を得続けることばかりを、極端に偏った感じで、考え続け。
眼の前にあるお金を、血眼になって拾い集めようと走る。
「お金持ちになりたい!そのために僕はなんでもやる!」
ただお金を拾い集めることに躍起になってしまうと。
「すべきこと!」ばかりに目が言ってしまい。
あっちにも手を出し、こっちにも手を出し、ただただせわしなく、手足をバタつき続ける。
そんな僕の、目を覚まして下さったのが、ファーザーの御言葉だった。
思い返せば僕も、19歳の頃、嫁さんと出会った時には、全財産10万円しかなかった。
今では僕も10万円を、クローゼットの棚に置いている。
そして、目の前にあるお金を追い求めるのではなく、たとえ、1日、1日は赤字になったとしても、人生の最後に黒字。
生きてて良かった(^o^)満面の笑みのまま、人生の幕を閉じたい。
そう思えるようになった時僕は
「私が今はじめて楽してもうかる商売はありますか?」
「私が今はじめて簡単にもうかる投資はありますか?」
・・・ということにも、心も身体も動かなくなった。
僕たちの一生。
暗い部屋の中で独り、電話帳のように積み上がる紙切れのようなお金と、対話し続けながら生きるのか?
沢山の仲間たちと、時間と場所と心の自由を得た状態で、満面の笑みで笑いながら生きるのか?
「シアワセ」の価値観は、それぞれのものなので、僕からは誰に対しても、強制することなどはできないが。
目先の小さな浮き沈みにとらわれていては、うまくいく、ビジネス・投資も成功するものも失敗させてしまうことは確か。
共に自分にとっての「シアワセとは何か?」探求を続け、最後には「人生黒字だった」と喜べるようになろう!
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…