「音楽」が楽器演奏者の手を離れ落ちた日。
「算数」が生きるために必要無くなった日。
指揮者が棒(タクト)を振り下ろす。バイオリンのG線で奏でる音色。弦楽器に重ねるクラリネット。天から舞い降りるフルートの笛の音。トランペットの音が嵐を呼ぶ。静寂の中でオーボエがゆらゆらと歌う。観客は演奏者たちの奏でる音楽に胸高まり涙を流す。
・・・古の時代、音楽というものは、演奏者たちが楽器で奏でるのを視聴者たちが生で聴く。一つの空間の中で一体になれる場所でしか、味わえない奇跡の瞬間の連続だった。
実際に演奏者が、楽器を手に持ち、音を奏でなければ、音を楽しむことができなかった。
音楽が奏でられる演奏者は貴重であり、彼らは政にかかわらることなく、戦地に赴くことなく、ただ楽器を奏でるだけで優雅に暮らして行くことができた。
いつから音楽は、演奏者たちの手から離れたのだろうか?
音楽の歴史は、1877年にトーマスエジソンが円柱型アナログレコードを開発した時から変わって行ったようだ。
1889年ブラームスはエジソンの依頼により、『ハンガリー舞曲第一番』と『とんぼ』を自ら演奏したものを録音。史上初の音楽レコーディング。
アナログレコードの時代が続く。アナログレコードが、一般家庭に広がって行く中で、音楽は演奏者たちの手を離れて、無機質な機械が奏でるものに落ちた。
1970代後半から、磁気テープメディアであるカセットテープが音楽用に一般家庭に広がる。
1980年台にはいると、ソニー、日立、日本コロムビアからコンパクトディスク(CD)がプレーヤーと共に発売。爆発的に、庶民の日常に溶け込んで行く音楽。
音楽が奈落の底に落ちたのは、1995年Microsoft Windows 95の発売以降。MP3といった非可逆圧縮方式が爆発的に普及したことだった。
音楽はタダ同然に手に入るものとなり。今では、世界中のありとあらゆる音楽が、インターネットに接続するだけで、ただの一円も払わずに視聴できる。
音楽を視聴するために、演奏者が楽器を奏でることが、必須ではなくなり。時間とお金がある時の、特別な娯楽へ。
ゴクゴク一部の特別な人間を除き、楽器を使って音楽を奏でる多くの人間は、それを職業として生きることができなくなってしまった。
事実、音楽は、インターネット広告報酬と同じレベルの価値まで転落した。
経済を中心とした、僕たち人間の進化成長は、多くの人たちの、生きる糧を奪って行く。
もしもあの時、エジソンがレコーディングを発明していなかったとしたら・・・。もしもあの時、コンパクトディスクが普及していなかったとしたら・・・。もしもあの時、Microsoft Windows 95が誕生していなかったとしたら・・・。
今の僕たちが日々足を運ぶスターバックスコーヒーで、曲を奏でているのは、生の演奏者だったかもしれない。
街中に、演奏者たちが、溢れかえる世の中になっていたかもしれない。
けれども、現実は・・・演奏者がいなくても、楽器は無くても、曲は機械から自動的に流れ続ける。
音楽に対する感動や有り難みも無いはずなのだが。人はバーチャルで創りだされた、楽器で演奏された音であると錯覚し、目を閉じてうっとりしているのだ。
CDプレイヤーで、夢中になって音楽を聴いていた頃だろうか?
フト体じゅうに電撃が走ってしまったように、音楽の姿が分かってしまった時、僕は音楽家になろうとする気持ちが失せた。
僕は曲という曲を捨てた。楽器に触れるのを辞めた。
今日では、音楽を聴くどころか、飛行機搭乗時にも使う耳栓をして無機質なMac Book Airに向かって、パチパチとキーボードを叩き、文字の羅列を続けるだけになった。
僕たち人間は進化成長しているのか?
しかし、人間の進化成長は、同時に多くのものを奪う。だから、僕たちは精神的には、退化後退しているとも言えるのだろうか?
文字を画面に並べることしかできない僕には分からないが。どちらにしても、金融資本主義の下、経済が中心となって僕たちが進化成長とやらを続ける限り。。僕たち「生身のニンゲン」による「シゴト」はドンドン失われる。
楽しみも・・・。時代は凄い勢いで流れていく、前に?後ろに?
人間が音楽をバーチャル演奏でうっとりできるのなら。男女の営みも、バーチャルで行われる日も近いのか?
「算数」と「数学」が「芸術大学」で学ぶ科目になる日
タイの首都バンコクのタイの王族御用達の由緒正しいホテル「Dusit Thani Bangkok」内の高級ステーキレストランHAMILTOMN’S。
北の物販大富豪こと、「地下ソサエティ」北野会長との謁見ディナーの席。北野会長が突然、僕に向けておっしゃった。
北野会長:「孔明、間違っちょる。」
続けて北野会長の口から飛び出した言葉を耳にした瞬間、フィレステーキをナイフで切る手が止まり、思考も硬直した。
北野会長:「経営者には足し算、掛け算」割り算はいらん!「引き算」しかいらん!」
・・・と、ズバッとおっしゃったからだ。10秒ほど静止した後、再び思考が正常に戻ったのは、ナイフでフィレステーキを切り、口に運び噛み締めた時、極上の肉の旨味が口の中に広がった後だった。
孔明:「確かにおっしゃるとおりですね。そうでした・・・。」
孔明パパと長女ピスミンの親子黙々会の様子を投稿した際、僕が並べたつぎの言葉を北野会長は指摘されたのだ。
>「決算書」というものが気になっているようで、
>ネットで検索して確認していたようだ。
>
>実際「決算書」って、
>足し算、引き算、掛け算、割り算しか使わないので、
>本来すごく単純なお話。。
>
>本来、
>先入観の類がなければ、
>高学歴とかでなくても、
>誰でも理解できる内容。
>
>・・・ということで、
>僕のお話は「10代前半の子供でも理解できる」。
・・・僕は子どもたちには、「時代が違うから。」と。極力学校の勉強をしないことを促している。
余計な学びが増えれば増えるほど、僕たちの限られた脳の機能は、ブレを生じてしまうから。経営者の道を歩みたいという長女ピスミンには、ムダなことは最小限に、極力空っぽの状態であり続けて欲しいからだ。
孔明パパ:「社会では、足し算、引き算、掛け算、割り算しか使わないから、「数学」や「算数」の深追いしない方が良いよ!」
長女ピスミンにも、アドバイスをしていたのだが。この孔明パパのアドバイスも、間違っていた。。。確かに。。「北のセオリー」の極意を理解しきれていなかったようだ。
次回改めて、娘たちと「孔明パパタイム」の時間を持つ時に。
孔明パパ:「ゴメンね。パパ間違えちゃった。「引き算」しかいらなかった。。。」
・・・と、訂正しないとならない。同時に僕は思い出した。
音楽・楽器・演奏者・・・僕が音楽そのものを捨てた理由、その記憶が蘇り、悲しい旋律が走った。
金融資本主義を中心とした、人間の進化成長は、「音楽」だけではなく、僕たちから「算数」や「数学」までをも奪うのだろうかと・・・。
「算数」や「数学」が、「引き算」を除いて、僕たちにとって必要ではなくなる時代が到来してしまった・・・。
100年後の今日、「算数」や「数学」が、「音楽大学」や「芸術大学」の類で、「シゴト」や「いきるため」の実益目的ではなく、趣味の科目として学ぶ日が到来するのだろうか?
今日の「音楽」がそうなったように・・・。
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…