高校生の時に英語のテストで赤点連発、最低レコードは「2点/50点満点中」あと一歩で落第をするところだった。
しかし僕は当時から人の巡り合わせによる運だけは良かったらしく。インテリメガネをかけた、スラリ背の高い、ハリーポッターの背が高くなったようなクラス担任兼英語の先生が、超偶然にも、たまたま僕の母の妹の大学時代の仲の良い同級生だったことで、一命を取り留めたようだ。
仮に、高校で留年ともなれば、ある種喧嘩とかして退学になってしまうよりも屈辱的なこと。。
たった一学年の違いといえども、部活の中では圧倒的な上下の差というものが存在する、
部活の後輩たちと教室で肩を並べることにもなり。生きたままゆっくりと公開型の拷問を受け続けることに等し。
恥ずかしくて部活に通うどころか、高校自ら逃げるように中退して自宅に篭もりうつ病モードに突入していたかもしれない。。
スポーツ推薦で入学してしまった、大学時代は時代は言うまでも無く。会社に入社して社会人になった後も、英語大嫌い病キャリアであることは変わらなかった。。
会社の中で、全社員が受けさせられたTOEICの点数は265点。
100点を超える点数を取れて、ドヤ顔をしていたよこと、TOEICは990点位が満点らしく、同期社員たちの中で、ダントツビリッケツであることを知った時の落胆ぶりは、勉強してないから当然ということは
棚にあげる形で、将来の出世に響くのではないか?と、真剣に落胆していたのを記憶している。
「体育会系で見た目で営業っぽいと言われますが、営業じゃなくて、企画開発担当をやりたいのです!」
・・・と、新商品の企画書を、会社に提出しまくっていた根性が、認められたのか。王道筋の部署ではなかったにしろ、超マイナー部署の企画開発担当の辞令を受けたことがある。
配属された部署の企画開発担当には、米国や香港との日々のやり取りが、業務の60%以上だということを、配属された後、つきつけられた書類と、業務レクチャーによって知った。
漢字、ひらがな、カタカナとは違う、いまいちしまりとわびさびの無い蛇文字を眺めているだけで、業務中であることを忘れて、落ちそうになってしまうことがあるが。
「それでは社会人は務まらない!」と、米国国旗の書かれた鉢巻を東急ハンズ渋谷店の宴会バラエティコーナーで購入。
「よし、英語を勉強しようか!」
と、本屋で参考書を購入しにいった週には、いつの間にか営業&マーケティングに飛ばされていた。。
「前代未聞の最短異動事件」を経て、会社の中で企画開発担当だったことがたったの3、4ヶ月間だけある過去は、黒歴史として心の奥底にしまっておくことにした。
それまでの人生の中で、僕が海外に行ったことがあるのは、
- 5歳の時に孔明パパとママに連れられてハワイ
- 大学3年生の部活オフの時にジョジョの奇妙な冒険にあこがれてイタリア
- 大学4年生のプレイオフで負けて部活引退した後行ったハワイ
- 入社2年目の時に執行役員のお供でニューヨーク・ロサンゼルス
・・・生涯の中で、4回だけしか海外に出たことが無く、海外イコール「欧米」という理解しかなく。アジア・・・と呼ばれるところは、思考回路の中に一ミリたりとも存在はしていなかった。
そんな僕に転機が訪れたのが、社会人4年目のことだ。
あまりにも、僕がお世話になった上司たちがリストラされまくるし。残っている上司たちとは、なかなかウマも合わないので。そろそろ、会社辞めて独立起業するか?・・・と、真剣に考えはじめた時。
月に一度の全社テレビ朝礼の時に、「海外公募」という企画が 新たに立ち上がったのを見て。「これだ!」と、直感的にピントくるものがあり。朝礼終了後10分後には、何の未練もなく、人事部の「海外公募」企画担当者宛に、応募のメールを送っていた。
数日後には、薄髪だが綺麗な髭に覆われただるま顔の人事課長に呼び出され、マンツーマンの面談をすることになった。
孔明:「アメリカでマーケティングの仕事をしたいです!」
人事課長:「アメリカは残念ながら、日本人の営業&マーケティングはいらんねん。それに君は英語まったくできんでしょう?」
・・・面接はかなり短く、ああ、これは駄目かな・・・と思っていたところ、再び人事課長から呼び出しがあり行ってみると。。。
人事課長:「アジアはどうや?」
新たな提案を頂戴した。アジアとはどこからどこのことを位置するのか?体育会アメフトスポ薦出身だった僕にはよく分からなかったが。地球儀のインドかアフリカあたりを脳裏にイメージしながら・・・
孔明:「アジアですか?まだ一度も行ったことがありませんが、是非お願いします!」
こうして僕の、香港への異動が決定した。
「ハロー!ナイスとミートユー」という挨拶と、グーグル翻訳を駆使したコピペしか英語が出来ない状態にも関わらず。。
しかし、今振り返って見ると、あの時「香港行き」を、瞬間的な判断によって決意した瞬間。僕の命運は大きく変更を遂げ始めたようだ。
僕がそれまで自分だと思っていた自分が本来の自分ではなかったと知り。生まれながらの囚われに基づく、本来の自分「月財門」というものが「発動」した。
2003年4月に香港に転勤。
いつの間にか、ビジネスで通訳をつけずに、英語と中国語という日本語以外の言語で、世界各国のビジネスパーソンを相手に、億レベルの事業の商談までできるようになっていた。
2004年8月真田孔明正式デビュー。
副業という形ではあったが、インターネットビジネス、投資という2つの軸で、サラリーマンからの給与収入を遥かに超える領域で稼げるようにも、なってしまったわけだ。
あの時、瞬間的な判断で、「香港行き」のきっぷを手にして、「香港行き」の決断をしていなければ、今の「真田孔明」としての僕は存在していなかったかもしれない。
ちなみに、僕が「香港行き」を決定したのは、長女ピスミンが後4ヶ月間程で生まれるというタイミングだった。
新築で購入した、マンションに住んでから、たったの2年しか経過していなかった。
「香港行き」決断の段階では、身重の妻と自宅、共に日本に置き去りにする形で、飛び出してしまったというわけだ。
当時は妻にも生まれてくる娘にも、身勝手な決断をしてしまい、非常に申し訳無いとも思っていたが。。あれから13年が経過しようとしている今日。
2人の娘たちが元気よく、アメリカンスクールに通う姿を見たり、彼女たちが、僕と共に家族旅行として、ハワイ、香港、中国、台湾、シンガポール、マレーシア、フィリピン、中国、、、と旅をしても、臆すこと無く、現地の方々と会話をして、現地通貨を使いわけて、買い物をする姿をみたりした時。
あの時の僕の「香港行き」の決断は間違っていなかったと確信することができるようになった。
なぜなら、あの時の「香港行き」の決断がなければ、今の僕も、彼女たちも、僕と共に活動をしてくれる仲間たちも、今とはまったく違う今日を送ることになっていたはずなのだから。
新たな「命運」の流れをつくりだせるのは、自らみらいを切り開ける人のみに与えられた特権だと、多くの賢者から教わったし、実際自分の実体験の中から学ぶに至った。
「〜だからできない。」など、出来ない理由を考えようとするのではなく、できる方法のみを考え続けられた人のみに、時空がくれる「ギフト(贈り物)」のようなものなのだと。。
僕と同じく、かつて「香港行き」のきっぷを手に入れたことで、新たな「命運」の流れをつくりだすことができた盟友。
平城寿@SOHOと共に行う、「命運の成幸フォト撮影」のイベントを、「香港」にて開催する時。次は一体どんな方が、自らの意思で「香港行き」のきっぷを手に入れ、新たな「命運」の流れを作り出すことになるのか?非常に楽しみだ。
「命運の成幸フォト撮影」
http://hirajoshiki.com/seikou-photo
追伸
「写真」は僕の大学生4年生の卒業旅行米国ハワイワイキキビーチにて。
社会人になった後も、日本にいる4年間は、引き続きこんな感じだった。。
しかし、入社4年後、2003年の「香港行き」によって、どれだけ「命運」が変更されたのか?一目で分かる写真だと思い。平城寿@SOHOに促される形で、妻が持っていた写真を借りて、恥ずかしながら投稿。
平城寿@SOHOの大学生時代の写真
https://www.facebook.com/hisashi.hirajo/posts/10205316949272510
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…