僕たち人間の「認識」というものは、とても曖昧なようだ。
例えば、パソコンの画面から視線を外し、部屋中、自分の身の周りに何か置かれているかを見てみると、今まで特にそこに存在していると気づかなかった様々なものが存在していることに気づく。
iPhone、iPad、MacBook、ペットボトル財布、部屋のカードキーと、普段日常的に使っているものは、すぐに認識することができるが。
ペン、バンクスステートメント、メモ、指輪、ハサミ、領収書、デンタルフロー、各国の財布とお金、ティッシュボックス、雑誌、頭のマッサージ機、サプリメント、耳栓、アイマスク、カレンダー・・・
もっともっと沢山の物で溢れかえっていることを新たに認識することができる。
普段からそこに存在していたのに、まったく認識していなかったものが、沢山でてくるのではないだろうか?
存在しているのに、存在していると認識していないもの、これを「盲点」という。
人間の認識というものは、とてもとても不思議なもので、目から入る情報は、神経を通して脳に情報伝達しているはずなのに、脳がその情報を処理してはじめて認識できるので、
視野にはしっかりと入っていて、目には入っているはずなのに、認識できていないものが、沢山存在する。
ただし、この「盲点」を生み出す機能は僕たち人間が、生きていく上では、非常に役に立っているようで。
仮に脳が、目で見えるもの全てを認識してしまったとしたら、常に膨大な情報を処理する必要がでてきてしまう。
すると、パソコン上で、全てのアプリを立ち上げるかの如く、処理容量オーバーでフリーズしてしまう。
だから、あえて、見たもの全てを認識しないように人類20万年の中で、進化してくれているようだ。
僕の場合は、iPhone、iPad、MackBookという順番で認識していったのだが、今日時点においては、iPhoneが最も重要だと脳が自然に判断してくれていることになる。
このような重要なものの並べ替えは、時代の流れと共に、変わっていくようだ。
今自分が生きるにあたり、何が一番大切なのか?
必要なものから順番に並べて認識して行くようだ。
逆に、メモやペンのように、昔から当たり前のように、使っていたものであったとしても、今日時点において、生きるために必要がなくなってしまうと、存在していることすら、認識できなくなってしまうようだ。
つまり僕たちが今、目で見たり、考えたりして、認識できているもの全てが、僕たちの「世界」だと思いがちになってしまうが、認識は今の僕たちにとって、必要なもの、見たいと思うものに過ぎないのだと言語化できる。
自分のことを一番知らない自分
次に、自分自身に対する、認識はどうだろうか?
実は「盲点」というものは、目を通して見ることができる、自分の周りのものだけではなく、自分自身の中にも存在する。
その中でも、「自分が何者なのか?」という部分が一番の「盲点」になっているようだ。
世の中の大多数の人間は、自分のことを知っているようで、何も知らない。
自分の目で見ているものもよく認識できていないだけではなく。自分自身のことが、何よりも認識できていないのだ。
「自分は何者なのか?」
本当に理解できていない人たちが多い。
ためしに、自分という存在を、定義化できるものを、言葉で並べて行ってみる。
- 真田孔明
- 男性、41歳
- 日本人
- 四柱推命鑑定士
- マレーシアジョホールバルが拠点
- マレーシア、シンガポール、中国、香港を転々としながら生活をしている
- iPhoneアプリゲームが好き
- 漫画を読むのが好き
- アニメ超好きだったが最近視聴機会が少なくなった
- 神奈川県横浜市生まれ
- 既婚・子供(娘2人)
- 娘たちはアメリカンスクールに通っている
- 私立大学商学部卒業
- 元東証一部上場企業の玩具メーカー社員
- 英語・中国語を話せるがTOEICは265点
このように、自分に関することを、「プロフィール」的に、書き出して行くことになる。
「プロフィール」を書き出して見ると、一見すると自分のことを理解して認識できたような気になってしまいそうになるが。実は列挙した「プロフィール」の中に、自分自身というものを、表している言葉自体は、何も無いことに気づく。
地名であったり、モノであったり、他人であったり、組織であったり、資格であったり。経歴であったり、自分のことを、書き出せば書き出す程に、自分以外のこと。
第三者が決めた枠組みの中で、言語化しているに過ぎないことに気づく。
これが、世の中の大多数の方々の、「自分は何者なのか?」に対する回答。結局、本当の自分のことは、全く分からないままなのだ。
つまり、みんな自分自身そのものへの認識が「空っぽ」の状態。
「本当の自分自身」に関しては、まともに言語化できない状態なのだ。
知らないものに「嫌悪感」を抱く
人は誰しも、自分が知らないものに対して、「嫌悪感」を抱いてしまう習性があるようだ。
たとえば、人種という概念でも、これが言える。
白人だから・・・黒人だから・・・黄色人種だから・・・
自分と肌の色も、目の色も、言語も分からない人たちのことに関して「嫌悪感」を抱き続ける方々が多い。
そして、未知の人間との間で、何かいざこざが発生すると、
「ほれ見たことか、あいつら◯人だから、こういうことをするんだ!」
・・・と、「嫌悪感」を露わにする。
さらに、もう少し小さな枠組みに落としてみると、同じ肌の色の人間であったとしても・・・。
中国人だから・・・韓国人だから・・・
北海道だから・・・東京だから・・・大阪だから・・・九州だから・・・
もっと小さなところでは、樽町中学校だから・・・上の宮中学校だから・・・・
人種、国籍、地域、枠組み、組織・・・自分が知らない「未知」の人たちを、第三者が定義づけられた枠組みへのイメージだけで判断する。
だから、何か些細ないざこざや、事件が発生するのを見ると、「未知」の人たちに対して強い「嫌悪感」を抱いてしまう。
闘争本能をむき出しで非難したり、戦おうとするところまで、考えてしまう場合もある。
事実として人類史は、「未知」の第三者に対する「嫌悪感」が原因で、沢山の争いごとが発生。
いざこざ、小競り合い、戦争様々な規模での殺し合いの歴史。数え切れない程沢山の人間が、これが原因で命を落としてきた。
「嫌悪感」が発生してしまう、主な理由は「相手のことを知らないから」。
社会的に定義づけられた「枠組み」に対する、先入観だけで判断するようになる。
たとえば僕も、過去を振り返ってみると・・・。黒人の友達がいなかった時は、黒人に「嫌悪感」を抱いていた。
けれども、大学1年生の時、新宿歌舞伎町での「レゲイクラブ」の活動を通して、黒人のクリスとマックスと仲良くなりブラザーになった。
黒人としてではなく、クリス、マックス、それぞれを人として知ることができた。以降、黒人に対する嫌悪感のようなものが一切無くなった。
昔から、テレビなどでは、中国人のことを悪く言う報道が沢山あったので、以前は僕も、中国人はとても野蛮で、日本人とはまったく別の人種なのだと勘違いしていた。
けれども、会社の転勤で香港に転勤した後、華僑や、中国本土の中国人の方々と、日常的に一緒に仕事をするようになり。
中国本土の国家公電総局の方、国営テレビ局の方、現地の代理店の方々から、「兄弟の称号」をもらったりして、中国人一人ひとりのことが理解できるようになると。中国人も日本人も、同じ人間なのだと、理解できるようになった。
僕にとって中国人が「未知」の時には「嫌悪感」に似た気持ちを抱いていたが、「未知」でなくなった後は「嫌悪感」を抱くどころか、本質は全く同じであるということが、理解できるようになった。
ここで、重要なことは、「未知」に「嫌悪感」を抱くのは、他人に対してだけではないということだ。
自分自身に対しても、「自分が何者か知らない」と、「嫌悪感」を抱くようになってしまうのだ。
「プロフィール」が優れていると自分を好きになる
ちなみに、「プロフィール」で固めた中身は「空っぽ」の自分であっても、自分のことが好きな人たちもいる。
なぜ、「空っぽ」の自分を、好きになれるのだろうか?
それは、「プロフィール」の内容が、自己満足いく状態の場合であるようだ。
「プロフィール」の内容が、社会で言われている「理想」通りだったり、相対的に上のものだと、自分のことが好きになれるようだ。
けれども本来、「プロフィール」というものは、列挙すればするほど、自分のことは何も書いていない。
「プロフィール」しか列挙できない状態だと、自分の周りの情報を固めただけで、自分自身は「空っぽ」の状態のまま。「プロフィール」の列挙だけだと、いつまでたっても肝心の自分自身が何者か分からないままなのだ。
だから、それは自分のことが本当に好きというよりは、そういう第三者が決めた枠組みの中で、相対的に優位な結果を残すことができた自分を誇りに思っている状態であると言語化することができる。
けれども、自分の事を知らない。自分そのものを認識できていない。
この事実は変わらないので、この場合の「自分が好き」は意外と脆かったりもする。
右肩上がりの人生で、常に思うように良い「プロフィール」を塗り替え続けることは困難。
勤務している会社でリストラにあったり、大好きな異性にフラレたり・・・etc.
スランプに陥ったり、大きな失敗を経験したりすることで反動で強烈な「自己嫌悪」に陥ってしまうこともある。
「空っぽ」の状態のまま、第三者が決めた枠組みの中で固めていった自分。
核(コア)がしっかりとしていない分、勢いよく崩壊して行くことにもつながったりする場合も多いという危険性と隣合わせだったりする。
本当の自分を知ると自分を好きになる
そんな中、第三者が決めた枠組みによる、「プロフィール」の列挙では無い方法で、本当の自分を知る方法が存在する。
それが、自分の「魂」とも言えるべき部分を「言語化」することで認識するという方法である。
僕が平城寿@SOHOと共に不定期で開催している「命運の成幸フォト撮影会」で僕が担当しているのが、この「魂」の「言語化」という方法で、古代華僑の秘術を活用することで、
- 生まれながらの門
- 生まれながらの命式
- 生まれながらの星
- 命運のシナリオ
・・・などの情報を元に、「本当の自分」というものを言語化している。
この方法の優れた点は、列挙すればするほど、自分以外のことを語っていくことになる、第三者が決めた枠組みとも言える「プロフィール」に一切左右されないこと。
これまで歩んだ過去が、どのようなものであったとしても関係なく、本当の自分そのものを言語化できるのだ。
世の中の大多数の人たちが、「プロフィール」という、外界との関わりばかりを気にしていて、「本当の自分」そのものは、「盲点」的に認識できていない状態の中。
本当の自分そのものを、言語化によって知り、認識できるようになると、ものすごく有利に働く。「核(コア)」そのものを認識する。
すると、「盲点」が無くなる。「プロフィール」という上っ面的なものを好きになるのではなく、「本当の自分」そのものを好きになれることにつながる。
「本当の自分」を好きになれると、「魂」というようなものが、輝きを増してくる。
さらには、「魂」の「言語化」を元に、パートナーの平城寿@SOHOが、「成幸フォト」として写真に収める。
そこには、「プロフィール」に左右されない、「本当の自分」がいる。
今まで一番身近でありながら、一番の「盲点」になっていた、「本当の自分」を認識することができる。
今までの優先順位「プロフィール」が高かった状態が変わり、「本当の自分」そのものを尊重するようになれる。
このプロセスを経ることで、自分の良いところも、悪いところも両方理解して、認識して、好きになれる。愛せるようになれる。
すると、圧倒的な自信というモノがつく。
結果として、仕事、恋愛、プライベート、様々なシーンで、強いエネルギーを発して邁進することができるようになれるのだ。
もしもあなたが、「本当の自分」を知らないのだとしたら・・・。これまで、「プロフィール」の列挙による自分しか知らないのだとしたら・・・。
一度このタイミングで、「プロフィール」に左右されない、「本当の自分」という「盲点」に目を向けてみては如何だろうか?
追伸
次回の『命運の成幸フォト撮影会』は、8月12日(土)〜13日(日)、開催場所は香港。
資料請求はこちらから。
http://photo.hirajo.com/shiryo
前回の開催レポートby平城寿@SOHO
http://photo.hirajo.com/report_201707
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…