「子どもの教育って何ですか?」
この答えを導き出せる両親はほとんどいません。当然、世の中には様々な子どもの教育にまつわる概念があります。インターネットで見たり、本屋さんに行ったり、いろいろな情報を模索するのですが。その大多数は、「大学合格がゴール」という感じで、
「こうやって、この大学に入れました」
みたいなお話がとても多いです。大富豪一族マスターヒロさんが体系化された教育論も、学歴というものはそこを大事にしないわけではないのですが。全然そこだけが全てというわけではなくて。
あくまでも「途中経過」であり、そこがゴールで無いというのが特徴の一つだと思います。
両親による抽象度の高い自由研究「子どもの教育」
「子どもの教育って何なのか?」
マスターヒロさんのお話を聞く中で、改めて深く考えさせられます。その中で、「子どもの教育」というのは、子どもたちに、どうシアワセになってもらうか?ここに全てが集約されてくることが分かります。
それでは、どうやって子どもたちをシアワセにするのか?当然、子どもたちを持つ両親であれば、誰しもが考えたことがあるとは思うのですが。
それでは、両親が稼いだお金を使って、子どもたちに何でもモノを買ってあげたり。お金そのものをあげたり。一方的に与え続ければ子どもたちがシアワセになれるのか?
ここは、改めて考えると、
「それは確かに違うよね・・・」
ということに気づきます。当然、僕たち両親自身も人間ですし、まずは自分たちがシアワセになるというのはとても大事なことで。その中で、僕たち両親が生きていく中で培ってきた、シアワセのなり方。
シアワセになる力、そのものを子どもたちに継承すること。そのものが「子どもの教育である」ということを理解できるようになるわけです。
「お金が要らない」ということではありません。両親である僕たちも、子どもたちも、社会で生きていくためには、約95%くらいは、何かをする時には必ず、お金というツールが必要になることがすごく多いからです。
だから、お金という部分でも、社会的な水準から比べて、ある程度のアドバンテージ的なものを得て、いろいろな意味での選択肢を増やすということが、すごく大事な要素になることも分かります。
お金というのは、単純に僕たちが、贅沢をするものとかではなくて。例えば、子どもたちを様々な習い事に通わせるとか、学校でも、公立だけでなく、私立やインターナショナルに通わせるとかなると。
それに伴って、必ず相当なお金がかかるし。「世のため、人のため」という高い志の下、
「寄付をしたい。」
「ワンちゃんたちを救いたい。」
「貧しい子どもたちを救いたい。」
という場合でも、お金があったらとてもいろんなことができるだろうし。お金を稼ぐこと、経済的アドバンテージを持っていくことは、日本ではよく「悪いこと」的にされてしまうようなものがあるけれど。実際はそんなことなくて。
むしろ、日本の学校教育の中で、お金の話が、ほとんどされていないということが、一つ大きな問題点であると、マスターヒロさんも指摘されているわけです。
華僑大富豪の訓え「お花の咲かせ方」
マスターヒロさんの場合、長女さんは国内だけで教育を施しまして、長男さんは海外で長い時間を過ごされました。
国内の教育、学校生活、日本の教育の良いところ、悪いところ。海外の教育の良いところ、悪いところ、全て良いところどりをしてこられました。
悪いところを抑えて、良いところをなるべく取るようなスタンスでやっていけるように体系化されてこられたのです。けれども、そういう部分はまだまだ枝葉のお話であって。
国内でなければ・・・海外でなければ・・・というお話でもなくて。各ご家庭で、お父さん、お母さんが、子どもたちに何かを与え続けるというのでもなく。
根幹として一番大事なところは。子どもたちが自分自身の力で欲しいモノを取ったり、願いを叶えたりする力そのものだったりするわけです。
マスターヒロさんが、教育活動の参考にされた方の中に、とある国のトップクラスに君臨されている「華僑大富豪」がいらっしゃいました。
彼らからアドバイスを受けたこと。「日本人は二世で大体潰れる」ということ。
「なぜなら日本人は、子どもたちに花を残すことしか考えないから」
「たとえ東京ドーム一杯分の花を子どもたちにプレゼントしたって1ヶ月間も経たない内に全部枯れるよ。」
「我々華僑がそうでないのは、子どもたちに花をあげるのではなく、花の咲かせ方を継承していくからだ。」
まさにとても理にかなったお話だと、当時のマスターヒロさんは感銘を受けて、その華僑大富豪からも教育論に関して、とても多くのことを学ばせてもらったそうです。
僕たち両親が子どもたちに「花を残す」「花を与える」ということもその活用方法次第では決して悪いことではないかもしれないけれど。
「花の咲かせ方をどう教えて行くか?」
「子どもたちが自分自身の力で、お花をどう咲かせられるか?」
「咲かせる力をどう教えられるか?」
ということの方が、とても大事なことであるとマスターヒロさんの訓えを深めるほどによく分かってくるわけです。
年収2,000万のための「1対249」と「250分の1」
僕もビジネス・投資の分野のお話で非常に沢山の方々と面談を繰り返して来ましたが。ヒアリングを重ねていくと、皆さん「年収2,000万」というのが、「選択肢のある人生」を送れる一つの目安であると意見が集約されてきます。
確かに、年収2,000万であれば、組める住宅ローンの額も、1億に到達しますし。車も、国産車だけではなく、高級外車にも所有し乗れるようにもなりますし。子どもの教育でも、私立学校に加えてインターナショナルスクールに通わせる選択肢も出てきます。
複数の習い事に通わせたり、家庭教師をつけることも、余裕をもってできるようになります。各々が何を選択するかは別にして、選択肢が増えるという部分では「年収2,000万」というのは間違い無い数字であると分かります。
だから、将来子どもたちが、
「まずはお金で手に入れられるモノ叶えられる願いを自力で取れるようになってもらいたい!」
と願うのであれば。どう教育すれば、
「子どもたちが22歳を迎えて社会に出た後、年収2,000万を取り続けられる社会人になれますか?」
ということも、「教育の目的基準」として重要なテーマの一つになってくるわけです。けれども、これは僕もよく、「年収ピラミッド」として、図表を使って説明したりもしますが。一般的にそう簡単なことではありません。
なぜなら、日本で年収2,000万を取れる社会人は。全就労人口の中でもたったの0.4%しかいないからです。偏差値にすると「77」。就労者の250人に1人しか年収2,000万以上を取れていないことになります。
マンモス校のひと学年にひとりいるかいないか?その程度のかなり狭き領域なのです。世の中の大多数の人たちは、249人の方=年収2,000万未満。子どもたちには249の方ではなく、250分の1の「1の方」になってもらいたい。
ただし、この「1」というのは、僕たちが理解していなきゃならないのは。とても少数のマイノリティであり。巷の常識ではないということ。世間一般的には「非常識」の方に入るパーセンテージのお話であることは分かって頂けると思います。
大多数、「249の人たち」がダメと言ったり、劣っていると言ったりしているわけではなくて。「249の人たちが普通」であり。「1」が異常なのだということも分かります。
それでは、子どもたちが常識ではない「1」の方の人になるためにはどうすればよいのか?僕たち両親として、どういう教育を施せば子どもたちが「1」の人になれるのか?
その中で、社会で生きていく限りは、「249側」の人たちともコミュニケーションを取っていく必要があるので。「250の中の1人」としても活動できなければならないシーンが多々出てきます。
けれども、249側の方と同じ考えと言動をしていたら間違いなく「249」側の人になってしまうわけで。それでは、どういうシーンで、「1対249」なのか?「250分の1」なのか?そのために、子どもたちが何歳の時に、どのような教育を促して行けばよいのか?
子どもたちには、個人差もあれば性格もあれば、年齢によっての成長スピードもある。生まれ育った家庭の環境、両親の収入格差も生じている中で。どのように子どもたちが、「1対249」と「250分の1」を使いこなせるようになれるのか?
その真骨頂を、僕たちはマスターヒロさん直伝の「帝王学」である「0歳〜18歳の英才教育」を通して学びながら実行に移しているわけなのです。
追伸・・・
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