「0歳〜18歳の英才教育論」に取り組むにあたり、世の中の「常識」のというものが改めて違う側面から見えてくるようになる。
例えば、お父さんの「子どもの教育」に取り組む考え方や姿勢という部分。誰がそんな常識をつくったのか分からないけれども。なんとなくの「暗黙の了解」的なものがあって、それを自分の常識として取り込んでしまいがちになる。
例えば、僕が勤務していた頃のサラリーマンで言えば、「お父さんは多忙が美徳」というものがあった。結婚をして子どもを持つ上司や先輩たちとランチをしたり、飲みに行ったりしている中で、会話の節々に出てくるものであり、それを聴いている内に、
「確か、うちの父もそんな感じだったな・・・」
と納得してしまう部分もある。いつの間にかそれが、自分自身の「常識」としてインストールされてしまったりする。
少しは手伝ってるって感謝して欲しいな!
「ヨメがめちゃくちゃ機嫌が悪くて・・・」みたいな話になった時、働くお父さんたちはみんな当たり前のように、自分の正当性を論じる。
「オレはこんなに忙しく働いてるのに、ヨメは全然分かってくれないんだよね。」
と。お仕事が忙しかったり、付き合いで全然帰れなかったり。奥様と子どもたちを放ったらかしにしていることを正当化するべく、
「部長のYさんの時代は、もっと過酷で、何日間も帰れなかったという伝説もあるし。サラリーマンってそういうもんってヨメにはわかって欲しいんだよね!」
と。でも、そんなに忙しい中でも、
「いつも「ゴミ捨て」はしているので、少しは手伝ってるって感謝して欲しいな!」
というようなことだ。こういう話を聴いていく中で、
「そうですよね。私たちは闘うサラリーマンですからね!」
というような相槌と共に、妙に納得して、自分の常識として取り入れてしまう。
けれども、本来であれば、この場合果たして”ゴミ捨て”をしただけで、家族のために手伝っていると言えるのだろうか?
かつて僕が勤務していた会社は、「子どもに夢を売る会社」ゆえに、子どもが3人できれば、懸賞金100万円もらえる制度なんかもあったりして。
10歳位年上の上司・先輩たちのような、当時30台後半〜40台位の年齢になると。奥様と子どもが3人いて、東京まで電車一本ですぐに来れる、ちょっと離れた千葉・埼玉なんかに35年ローンで庭付き一軒家を購入して。なんてパターンが比較的多い感じだった。
つまりある程度、部屋の数が多い家にお父さん、お母さん、子どもたち5人以上の人たちが住んでいる状態だ。しかし、クリティカルに見ていくと、本来「ゴミ捨て」というのは、全ての部屋から家中のゴミを集めるところから始まる。
みんなが使っている全ての部屋の掃除をして。溜まってきたゴミ箱のゴミ袋を取り替えたり。ホッチキスなどの金属やプラスチックがついているものはひとつひとつ外したり。台所の生ゴミだったら水を切り、ついでに排水口の掃除もして。
ゴミを属性ごとに分別をしたり、ゴミ袋の在庫があるかチェックをして、足りなかったら買ってきたり。一つの外に出せる状態の「ゴミ袋」が完成するまでに、膨大な時間と労力を要する。そこまでが大変な部分であり。
「ゴミを出した」部分は、全く大変ではない。それなのに「手伝った」というのは、そもそも論でお父さんはどこからやっているのか?
仮にお父さんが「ゴミを出した」だけの担当だとしたら、それ以外の全てを、奥様一人でやっていることになる。「完成したゴミを外に出すだけ」で、
「家族に手伝ってるから感謝しろ!」
って思っている状態で、それが家庭内のお父さんの日常的な言動に出てしまっているのだとしたら。当然奥様は「殺意」を覚えるはず。
家族は「ひとつのチーム」であり、お父さん、お母さん、子どもたち、それぞれの担当ポジションや役割が各家庭ごとに全く違うので。お父さんが掃除をする所から全部介入すべし!と画一的な考え方をの押し付けで言えるものではなく、それが言いたいのでも無い。
しかし、お父さんの家庭内のポジションや役割がどうであれ、少なくとも、自分以外のチームメイト=家族が何をどういう手順でやっているのか?
その背景にある部分が全く見えていない状態で、「オレだけ頑張ってやってる!」的な状態になっているのは、本来おかしい部分。
しかし、日常的な社内の会話の中で、上司や先輩が言っているから・・・。みたいな感じで、自分の考え方にインストールされていってしまうものは、「ゴミ捨て」は単なる一例であって、他にもこの手のお話は山程ある。
こうして、「おかしな常識」がベースの「考え方」の中に構築されていってしまう。
家族を放棄してまでお仕事に命をかけているはずなのに・・・
日本のサラリーマンや経営者たちになど、ビジネスの世界に身をおいていると、様々な「常識」をうえ付けられてしまい、いつしかそれが自分の「常識」として根付いてしまったりする。
例えば、日本で良くあるのが、「家族を顧みず仕事をする」ということ。
サラリーマンとしてのお仕事、経営者としてのお仕事、どちらにしても「命をかけて、家にもほとんど帰らず仕事をする」ということなど。
子どもたちの学校行事があっても、仕事を最優先して何一つ参加しない状態。これがサラリーマンとしての会社の中でも当たり前のように常識として語られていた。
しかし、本来なら世の中に存在するありとあらゆるお仕事に関して自分の代わりなどはいくらでもいる。・・・にも関わらず、子どもたちの行事だけでなく、子どもが病気になっても、奥様だけに一任するほど、「お仕事に命をかけているか?」と思いきや。
サラリーマンであれば出世昇進につながらないこと、自営業者であれば、会社の利益アップにつながらないこと、家族の選択肢を増やすための年収アップにつながらないことだけは、何の根拠もなしにアッサリと決断して遂行してしまう。
「稼ぐ担当」である自分の本来の役割は全うしている様子はまったく無い。家族における「稼ぐ担当」が、普通に働いて、普通の年収を取ってくるのは、当前であり、特別ではない。
なぜなら、それが、家族と共に生活をする上での基本だから。にも関わらず、「忙しい、忙しい」サラリーマンとしてのお仕事、自営業者としてのお仕事、家族との時間を犠牲にしてまで、何よりも大事なものなはずなお仕事そのものも極めて軽率に取り扱っている。
「自分の目標年収を軽率に考え、真剣に向き合ってもいない。」別に2000万とか、3,000万とか、5,000万とか1億などの「就労人口の0.4%未満の特別な年収」を取って来れているわけでもない。
そんなお父さんを見て、果たして奥様や子どもたちはどう思うのだろうか?「お父さんは私たちに会いたく無いだけなんだね!」としか思われないのではないだろうか?そういう状態で、果たして言えるのだろうか?
「お父さんはこんなに頑張ってるのに、なんでお前たちはそんな状態なのか?」
と。この場合、目的基準がめちゃくちゃなのは、奥さんと子どもたちよりも先に、お父さんの方であると言えないだろうか?
女は子どもを産むと変わる?
「子どもが産まれてからヨメが毎日ピリピリして。女は子ども産むと変わるよね!」
これも、サラリーマンとして自営業者として、家族持ちの上司・先輩たちとの会話の中で、よく出てくる言葉だ。
「いつもイライラしてオレに当たる。忙しくて帰れない日もあるけどオレはお仕事頑張っているのだから、そこは分かってほしんだけど。」と。
「オレもなるべく育児・子育てに参加しようと思っていて、手伝ってるつもりなんだけど。」と。
しかし、実はこの言動から見られる考え方自体、おかしいことが発生してることに世のお父さんたちは気づけていない。
アメリカのメジャーリーグの中継などで。メジャーリーガーや監督など、絶対に欠かすことができないと思われるような重要な役割を担っているような方々でも、時々試合を休むことがあることがある。
奥様の出産、子どもたちの入学式や卒業式など、家族のイベント目的で休む。これに対して、その試合を中継している、日本側のアナウンサーや解説者たちが、その判断について、「奥さんが怖いんですかね?」と茶化してコメントしたりする。
メジャーリーガーや監督たちが、自分が本当に行きたくて行っていることが理解できていない。一生に一度の子どもの成長の記念日に立ち会いたくて立ち会っていると。
「行かずにはいられない!」行きたくて行っている。しかし、日本側のアナウンサーや解説者たちは、この考え方を全く理解できない。
なぜなら、自分自身はそう思ったことがないから。もっと言えば、「会社の周りの先輩・上司たちもそうだから。」だから、彼らが「大切なお仕事」を休んでまで、無理矢理行かされると自然に考えてしまう。
子どもの成長に立ち会うことができる「権利」だと考えているお父さん。 子どものイベントに立ち会わなければならない「義務」だと考えているお父さん。
子どもの入学式や卒業式という同じイベントに参加しているお父さんたちの中でも。「権利」だと思って参加してる人と「義務」だと思って参加している人がいる。
両者間には、天地ほどの差がある。なぜか日本の会社の中で、自然とインストールされる「常識」に基づくと。
子どもというものは、あたかも奥さんの付属物的なものであるとされている。だから、お父さんたちの口からはことごとく「参加する」とか「手伝う」なんて言葉が飛び交う。
また、「子どもを産んだら女性は変わる」とも言われているが、本来ならそんなことは当たり前だ。なぜなら、僕たち人間は哺乳類の中で、他の動物たちとは違い、子どもが「未熟児」の状態で生まれる生物。
乳幼児の育児の期間は、仮に母親がちょっとでも目を離したら、子どもたちは死んでしまう。。そんな生き物を育て始める状態、産んだご本人の覚悟は相当なものだ。
問題なのは、奥様が変わったことではなく、「お父さん」が一緒に変わっていないことの方だ。お父さんが、「子どもを授かる」ということの意味を、分かっていないだけのこと。
「働くお父さん」たちの間に根付く「常識」に基づくお話。「成功=シアワセ」の形は、それぞれであり、誰が何を「シアワセ」と感じるのは自由だし、家庭内における、お父さん、お母さんの役割や、家族生活に関してどう向かい合うか?もそれぞれであり。
強制できることでもないし、強制される必要も無いことなので、みんなそれぞれ好きにしてもらって良いと思うが。一つだけ言えることは、「考え方」に基づく行動の結果は、必ずそのまま自分自身に返って来るということ。
自分が考えたこと、考えなかったこと、取り組んだこと、取り組まなかったこと。全ては自分に返ってくるだけのこと。
当然ながら、サラリーマンにしろ、自営業者にしろ、今日お話したような、日本の「お仕事」の世界にはびこる「常識」に基づいて、家族生活、趣味、お仕事の「ライフスタイル」を構築している状態では。
「オレも頑張ってるのだから、お前らも頑張れ!」
なんてお父さんが子どもたちに言ったところで、『アリとキリギリス』のキリギリスが子どもたちに、
「オレはキリギリスだけど、お前たちはアリになれ!」
と言っているのに等しい。全くもって説得力は無いので、その常識に基づいて育った子どもたちも、22歳を迎える頃には、間違いなく「キリギリス」な状態になるだけのこと。
極めて「当たり前」のことが起きている。こうして、みんなそれぞれの「常識」に「考え方」に基づいた、世の中のポジションづけがされて行くわけだ。
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…