月官門のNさん(女性)「男性とどのように巡り会い、どのような基準で選別し、お付き合いをするに至るのかは分かりました。
けれども、恋愛の気持ちが発生するイメージが湧きません。一体、何のために男女が一緒になるのか?お付き合いを継続することに何の意味があるのか分かりません。」
・・・との問いを頂戴した。
確かに、生まれながらに定められてしまう、「命運のシナリオ」において、「恋愛の感情」が巡って来ていない方々は、情動的に恋愛の感情が芽生え、男性とお付き合いする・・・ということは、命理学上確かに難しいと思われる。
そこで、男女の恋愛や結婚というものを、「恋愛の感情」が巡っていない。
さらに、理屈や道理がしっかりと分からないと歩むことができない官門の方々に異性との恋愛を成就してもらうには、どうしたら良いかを熟考した。
そんな時に、出てきたのが『恋愛は「形式美」の探求である』という概念である。
つまり、男女間の恋愛を日本最古の伝統『恋愛舞踊』として捉え「形式美」を追求することを一つの目標にしてはどうだろうか?
そうすれば陰陽太極に位置する「内容美」も伴ってくるはずだから・・・と、提案してみたのである。
男女の恋愛は「形式美」の探求である
「形式美」
芸術などにおいて、表現された思想内容に対して、統一、均斉・調和など形式的側面における美。
相称、均斉、秩序、調和などがそれであり、これら諸原理の最高位に「多様における統一」を挙げる。
いわゆる「日本舞踊」「歌舞伎」「お笑い」などに見られる「お約束」とも言われる「予定調和」である。
一方、芸術の表している、思想・感情・生の充実感など内容に関わる美しさは「内容美」。
諸原理にもとづく美は「形式美」、表現内容となる美は「内容美」と呼ばれ、双方の比重関係はつねづね論議の的になっているが、芸術作品における「形式美」と「内容美」は、相即不離の関係にあり、一方の優位を断定することは難しい。
「形式美」と「内容美」の陰陽太極の相対関係が、絶妙な均衡で成り立っているものをすぐれた芸術作品と呼ばれている。
「形式美」を追求し続けることによって、陰陽太極に位置する、「内容美」も成長して行く。
つまり、男女の恋愛に関しても、日本古来の伝統芸能の如く、「型」を最優先に演じ続けることで、その対極に存在する、「感情」の方も成長してくる。
結果的に、「形式美」-「内容美」の綺麗な陰陽対極を描ける、男女の恋愛の均衡状態が生まれるのではないか?・・・という仮定である。
プロレスの「形式美」と「内容美」
「伝統芸能」・・・と言うと、馴染みが薄いと思うので、僕たちが昔からテレビでよくみる「プロレス」でイメージしてみよう。
「プロレス」も、「形式美」と「内容美」の両方の均衡が保たれた試合が、優れた試合だと言える。
たとえば、「プロレス」の試合は「ブック」といわれる台本に沿って進行して行くと言われている。
東京ドームや日本武道館など、沢山の観客動員が予測されるビッグゲームほど、しっかりとした事前打ち合わせに基づく「ブック」が存在すると言われている。
けれども、プロレスには「ブック」が存在しているとは言え、プロレスの技をかける場合も、真剣にかけないとならないし。技を受ける場合も、技が映えるように怪我をしないように、受け身をとらなければならない。
その上で、来場した観客、テレビを通して観戦している視聴者。観客全員に伝わるように試合を魅せなければならない。
「プロレス」は路上の喧嘩とは違う。鍛え抜かれた肉体と技術、精神を併せ持つ者だけに許された極上のエンターテイメント。
徹底的なショーアップ、緻密な計算、全てが超一流であることを求められる。
また、スターレスラーは毎試合、必殺技を決めるカッコよさが要求される。
プロレスラーは、「ブック」に基づいた、「形式美」的なもので動いていたとしても、技を繰り出す時、技を受ける時、ダウンをする時、起き上がる時、勝利する時。その時の気持ちは、本物となる。
「ブック」があったとしても、「ブック」通りに技を繰り出して試合をしているとしても、これを演じられる双方の技術と身体、さらには演じている時の感情、これらは全て、日々の努力によって創り上げられた「本物」なのだ。
「形式美」と共に、「内容美」も、結果として伴う芸術作品である。。
・・・このような、「形式美」と「内容美」の相対関係を参考に、「男女の恋愛」も、考えてみようというのである。
* 「形式美」に基いて構成された男女のカップルは、「内容美」も伴っている。
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「形式美」を探求し続けている男女のカップルは「内容美」も伴い続ける。
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「形式美」が崩れている男女のカップルは、「内容美」も崩れている。
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仮に「内容美」によって開始された男女のカップルでも、「形式美」が崩れると、「内容美」も崩れる。
・・・と考えることができるわけだ。
モテナイ男女は「馬場の十六文キック」をかわす
モテナイ男女・・・
異性の恋人・配偶者との関係性を上手に保ち続けることのできない男女には共通点がある。それは、「形式美」の観点から見ると、よくよく分かる。
「形式美」を全く無視して、自分の自由意志だけを最優先して、自由気ままに考え行動しているのである。
「プロレス」で例えるなら、
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「そこ倒れるところでしょ!」というところで、倒れなかったり。
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「そこ起き上がるところでしょ!」というところで、倒れたままだったり。
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「そこ技を受けるところでしょ!」というところで、技を交わしてしまったり。
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「そこ必殺技繰り出すところでしょ!」というところで、普通のパンチを繰り出してしまったり。
鉄板的なところでさえ、全て外す。
恋愛における「形式美」の観点から見て、まったくもってセオリーを外してばかり。周りから見て、誰からみても、不愉快に感じるほどに。
すると、対戦相手・・・恋人はたちまちやる気も喪失してしまい、試合は崩れていく。
男女の恋愛において、日常的に必要なパーツ。。
- 写真
- プロフィール
- 日々のチャット
- デートの選定場所
- デート中の会話・身のこなし
- デート中のお会計
- お泊り
- 男女の交接
・・・etc.
男女の恋愛にまつわる、ありとあらゆるシーンにおいて、・・・アダムとイブの頃から脈々と続く、人類最古の伝統芸能「男女の恋愛」においての、「形式美」を無視して、勝手に暴走してしまう。。。これは本当にモテナイ・・・見ていても見苦しい。
たとえば、男性から女性をデートに誘っておきながら、ドタキャンしたり、お会計を割り勘にしたり。男女共に、意気投合している状態で、お泊り旅行に行ってるのに、どちらかが妙な独自の貞操観念のようなものを働かせて「男女の交接」が何も発生しなかったり。。
挙げだすとキリがないが、「プロレス」で言えば、プロレス界のスーパースタージャイアント馬場が、老体でヨボヨボの状態だったとしても、「十六文キック」が飛び出した時には、当たりに行ってでも当たって、ぶっ飛んで倒れなければならない。
そういう鉄板的な「形式美」を無視して、「十六文キック」をヒラリとかわして、ジャイアント馬場にラリアットを炸裂させてしまう。。・・・みたいなタブーを、普通にやってしまう。
当然ながら、仮にそこで試合に勝ってしまったとしても、間違いなく次からは、どこからも試合出場のお誘いがかからなくなる。。・・・というような感じである。
一方、モテる男女というものは、異性とお付き合いを開始した時、この「形式美」の部分が、非常に優れていることが分かる。
「あ、そこそこ!!」というような、かゆいところに手が届く的に、ボタンを期待どおりにしっかりと押してくれるので。まるで自分が、優れた「恋愛小説」や「恋愛ドラマ」の主人公にでもなったように、心地良い気持ちに浸ることができる。
「形式美」が優れた共演の状態が続いていると、結果的に「内容美」も伴ってくるというわけだ。
芸能人でも、「ラブストーリー」系ドラマや映画の共演者たちが、実世界でも恋人になってしまうことが多いのも「台本」に基づく「形式美」がしっかりとしているから、「内容美」も伴ってくるというものだ。
だから、男女の恋愛を、日本最古の伝統『恋愛舞踊』として捉え『恋愛は「形式美」の探求である』と考え行動して行くことに集中することで、「形式美」に基いて、互いがしっかりと、美を追求した言動を続けることで、結果として「内容美」を伴った優れた「恋愛物語」を、ご自身の思い出という本棚の中に、並べることができるのではないだろうか?
恋愛の「形式美」を学ぶ『エデンの園』
なお、平城寿@SOHOと僕が不定期で開催している『エデンの園(アダム・イブ)』では、男女の恋愛を、日本最古の伝統『恋愛舞踊』として捉え、男女それぞれが、それぞれの役割を、舞い続けるための、美しい「型」を伝授している。
『エデンの園』受講申込フォーム
https://hirajoshiki.com/eden-entry
あなたは借金が怖いですか?
私は死ぬまでに<1,000兆円>の借金をすることが夢なのですが…