長野県ルートは、1日目は、夏季・冬季を通じ2回のオリンピック会場となった軽井沢町をスタートし、1998年長野オリンピックレガシーをつなぐ競技会場地等を巡りながら、主に県東北信地域をリレーしま … 1998年長野オリンピックの実施競技の詳細です。スケート・フィギュアスケートの実施日程、代表選手などをお伝えします。日本オリンピック委員会(joc)公式サイト 長野オリンピックの「アイスホッケー」会場としてオープン。オリンピックのフィギュアスケートはこことは別の「ホワイトリング」(長野市真島総合スポーツアリーナ)で、現在は体育館になっています。 1998年長野オリンピック(1998ねんながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで日本の長野県長野市を中心とする地域を会場として開催された20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックの歴代開催地の中では、長野は最も南に位置する緯度の地域である[1]。, 72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った[2]。, 長野オリンピックの競技会場は長野市、白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地である長野市が主催都市(Host city)だった。そのため、1994年リレハンメルオリンピックおよび長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで当時の長野市長だった塚田佐が出席した[3][4] 。, 1985年2月28日に信濃毎日新聞は、長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始した。同年3月25日に長野県議会はオリンピック招致決議を行った。その後は、長野県内の全市町村も招致決議を行った[5] 。, 1988年6月1日に行われた日本オリンピック委員会(JOC)の1998年冬季オリンピックの開催国内候補地選定投票で盛岡、山形、旭川を破り選定された。, 長野オリンピックの開催は、1991年6月15日にイギリスのバーミンガムで開かれた第97回国際オリンピック委員会総会で決定された。2回目は最低得票がソルトレイクとアオスタの2都市になったために落選都市決定戦という形で行なわれた。, 日本での冬季五輪の開催は1972年札幌オリンピック以来26年ぶり2度目だった(1940年も札幌で予定されていたが、中止となっている。冬季の場合は夏季と異なり非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる)。, 長野オリンピックの開会式は、天皇明仁・皇后美智子臨席の下、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。当初は夜間の開催だったが、アメリカの放映権を持つCBSの要請により昼間に変更[7]。同時に開催時間を2時間以内に設定していた[8]。総合演出(総合プロデューサー)は劇団四季の浅利慶太が担当(シニアプロデューサーが萩元晴彦、音楽アドバイザーが小澤征爾、イメージ監督が新井満、映像監督が今野勉[9]、総合司会が磯村尚徳と道傳愛子)。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱祭の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の曙の土俵入りが行われ、歌手の森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。, 選手入場はオリンピック憲章に則り、ギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は県民歌でもある「信濃の国」に合わせて入場した。大会組織委員会会長・斎藤英四郎および国際オリンピック委員会(IOC)会長のフアン・アントニオ・サマランチが挨拶し、天皇が開会を宣言して湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。, 猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美の元冬季オリンピック日本代表選手8人がオリンピック旗を持って入場し、長野市児童合唱団の合唱でオリンピック賛歌が演奏され、オリンピック旗が掲揚された。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場した。, 1997年世界陸上選手権10000m銅メダリスト・千葉真子から1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピックノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そして1997年世界陸上選手権女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」の中の『ある晴れた日に』が演奏され、1992年アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。, オリンピック宣誓は、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、子供たちのメッセージカードが入った羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が1,998個空に放たれた。, 開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェン作曲の交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行い、この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。, さらに演奏終了に合わせて航空自衛隊のブルーインパルスが開会式会場上空で五色のレベルオープナー展示飛行を行った。, 屋外競技は全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が変更され、スキージャンプ団体戦は競技が一時中断された。, 男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き競技日程が変更され、大会10日目の16日には男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施された。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした(1998年長野オリンピックの滑降競技場設営問題も参照)。なお、このシーズンのワールドカップ総合1位のヘルマン・マイヤーも滑降でこの地点で転倒したが、スーパー大回転および大回転で優勝した。, 志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるようスタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能であった。, 日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得した。, 日本代表団体の金メダル獲得の裏側を描いた映画「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」が制作された。2020年に6月19日に公開予定だったが、新型コロナウィルスの影響で延期が発表された。, 団体戦の日本代表は冬季五輪3連覇は成らなかったものの5位に入賞した。また個人戦で荻原健司が4位、荻原次晴が6位に入賞した。, クロスカントリースキー男子15kmクラシカルではケニアから出場し、最下位ながらも完走したフィリップ・ボイトを優勝したノルウェーのビョルン・ダーリがゴール地点で出迎えた一幕があった。, 大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、カナダのロス・レバグリアティがオリンピックチャンピオンになった。しかしレバグリアティは競技終了後、ドーピング検査でマリファナの陽性反応が出たために一旦はメダル剥奪が決定されたが、スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定により処分は取り消された。, プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回った。, 日本勢では清水宏保が男子500メートルで金メダル、男子1000メートルで銅メダルを獲得した。また、女子500メートルでも岡崎朋美が銅メダルを獲得した。, 多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワンが金メダルを争い、リピンスキーは当時15歳8か月で金メダルを獲得した。なお、リピンスキーはソニア・ヘニー(ノルウェー)の持つ最年少金メダル記録(15歳10か月)を更新した。その後、オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録の更新は難しくなった。, この大会からプロ選手の参加が認められ、ナショナルホッケーリーグ(NHL)は2週間中断した。NHLの選手を多く所属した6カ国は2次リーグからのシード参加となった。その中でもスター選手揃いのアメリカとカナダが注目されたが、ドミニク・ハシェックを中心とした堅い守備を持ったチェコがロシアとの決勝戦を制して金メダルを獲得した。, モーグル女子で、里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。, 正式競技としては1924年シャモニー・モンブランオリンピック以来74年ぶり2度目の実施となった。公開競技として行われた大会を含めると、1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。, なお、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。, 閉会式は2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催され、天皇・皇后が臨席した。, 各国の選手が入場し、「日本の祭り」というプログラムで長野県の祭りが一堂に集結、創作和太鼓『勇駒、信濃田楽、万岳の響き』の総勢2,000人揃い打ちが小口大八総指揮のもと演じられた。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、今大会の開催国である日本、次回2002大会の開催国アメリカの3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗が長野市長の塚田からソルトレイクシティ市長のディーディー・コラディーニ(英語版)に引き継がれたあと、ソルトレイクシティオリンピック組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会副会長の吉村午良とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチによって「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともにオリンピック賛歌が演奏・合唱された。, 聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱を行い、司会を務めたタレントの萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると会場は「地球! 長野オリンピックのフィギアスケート会場 - ホワイトリング(長野県)に行くならトリップアドバイザーで口コミを事前にチェック!旅行者からの口コミ(2件)、写真(枚)と長野県のお得な情報をご紹介しています。 長野オリンピックの「アイスホッケー」会場としてオープン。オリンピックのフィギュアスケートはこことは別の「ホワイトリング」(長野市真島総合スポーツアリーナ)で、現在は体育館になっています。, http://www.nagano-mwave.co.jp/bighat/event_organizer/medias/uploads/zaseki.pdf, 3Fジャッジ側の貴賓席上は2列。前に少し貴賓席の屋根がありジャッジ席が見えない程度(リンク内はギリギリ見える)。, 表彰式はDブロック側を背後に配置。正面から見たければHブロック、映りたければDブロックへ, 会場が長野駅から遠いのが難点(約1,6km)。徒歩だとかなり遠い(約20-30分)、積雪・凍結時は困難。, 主要なイベント時は東口よりシャトルバスが出ている。バスで10分ほどだが、終了時に並ぶ時間はかなり余裕をみたい(20-30分)。片道1日有効で200円か往復400円。, 会場南西にある水野美術館横の空き地が臨時駐車場になる(無料)。かなり広いが砂利。ただし冬季は長野市内含めて積雪や路面凍結になることも多いので、慣れない方はオススメしない。, 長野駅周辺にはホテル・旅館も多いがいいところは早めになくなりがち。駅前のメトロポリタンは値段もソコソコなので早めの予約をオススメ。, 駅隣接の飲食店街21:00~23:00ぐらいまで(王将、そば、ラーメンなど)。1Fにマクドナルドあり, 2010年は12/24-26に全日本、27日にMOI開催。24-25日は予報どおり雪になったが白くなる程度で大きな混乱なし。外はかなり寒かった。24は7割ぐらいの入りのためか場内も少し寒いときがあった。, 2009年は11/6-8開催だったが、11/2-3に長野で初雪(平年より20日ほど早い)。雪は完全に無かったが山間部の高速は道路周辺に雪が少し残る程度。気温は8-20度でかなり天候も良く暖かかった。. 1998年長野冬季オリンピックのスピードスケート会場「エムウェーブ」ホームページです。イベント情報,貸し会議室,長野オリンピック記念展示コーナーのご見学やオリンピックグッズなどの販売をしているエムウェーブショップなど。 1998年長野冬季オリンピックの会場「ビッグハット」ホームページです。冬期はアイスホッケーやフィギュアスケート等の大会会場として、夏期は各種大会のほか、展示会やイベント会場としてご利用いただけます。イベント、アクセス情報、施設情報、フロア案内など。 長野オリンピック最高の人出だったと言われる1998年2月17日夜。金メダルを取ったジャンプ日本チームをひと目見ようと、表彰式会場のセントラルスクゥエアから歩行者天国の長野中央通りは人波であふれた(1998年2月18日付・信濃毎日新聞朝刊の写真) 1998年長野オリンピック(ながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで日本の長野県長野市を中心とする地域を会場として開催された20世紀最後の冬季オリンピックだった。 冬季オリンピックの歴代開催地の中では、長野は最も南に位置する緯度の地域だった。 長野オリ・パラ20周年記念事業実行委員会. 1998年長野オリンピック(1998ねんながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで日本の長野県長野市を中心とする地域を会場として開催された20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックの歴代開催地の中では、長野は最も南に位置する緯度の地域である 。 長野オリンピックの「アイスホッケー」会場としてオープン。オリンピックのフィギュアスケートはこことは別の「ホワイトリング」(長野市真島総合スポーツアリーナ)で、現在は体育館になっています。 1998年長野冬季オリンピックのスピードスケート会場「エムウェーブ」スケート営業についてページです。イベント情報,貸し会議室,長野オリンピック記念展示コーナーのご見学やオリンピックグッズなどの販売をしているエムウェーブショップなど。 1998年長野オリンピックの会場情報です。日本オリンピック委員会(joc)公式サイト お知りになりたい競技種目をクリックして下さい。その競技会場が御覧になれます。 長野オリンピック施設はその後どうなった?開催20年後の2018年は明暗が分かれる転機に。オリンピックスタジアム(南長野運動公園)、ホワイトリング、ビックハット、アクアウィング、エムウェーブ、スパイラル、飯綱高原、セントラルスクゥエアの今。 リレハンメルオリンピックの開催は1988年9月15日に韓国のソウルで開かれた第94回国際オリンピック委員会総会で決定された。開催地誘致は隣国スウェーデンのエステルスンドとのスカンジナビア半島決戦となり、初の冬季大会開催を目指すスウェーデンが有利との下馬評だったが、大会会場をコンパクトに集約したリレハンメルが開催権を得た。 1998年長野オリンピック開催に当たり建設され、フィギュアスケート及びショートトラックスピードスケートの会場として使用された。. 2010長野オリンピックの特集ページです。競技日程や実施種目などを紹介します。 日本オリンピック委員会(joc)公式サイト また、全天候型テニスコート1面も備えている。 ビッグハット、全日本フィギュア2020の座席表は?収容人数は?わかりやすく解説! ビッグハットは長野オリンピックでアイスホッケーのメイン会場として使われたところなので、リンクをぐるりと客席が取り囲む構造になっています。 長野オリンピック・パラリンピックの開催から20年を迎えることから、それを記念して様々な催しを開催します。 1998年長野オリンピック 1998年長野オリンピックの概要 ナビゲーションに移動検索に移動この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。 1998年長野冬季オリンピックの会場「ビッグハット」ビッグハットについてページです。冬期はアイスホッケーやフィギュアスケート等の大会会場として、夏期は各種大会のほか、展示会やイベント会場としてご利用いただけます。イベント、アクセス情報、施設情報、フロア案内など。