『阿・吽』の最澄と空海も同様です。子どものころから優れた人物と認められ、国分寺で学んだ最澄は、紆余曲折がありながらも国によって正式な遣唐使のメンバーとして選ばれ、桓武帝らから資金援助を得て唐に向かいます。 最澄は天皇のために祈る最高位の僧侶「内供奉十禅師」の一人として、遣唐使の船に乗り込む。いわば仏教使節団の団長というところ。この時点で最澄は最先端の仏教の担い手であり、奈良の南都六宗の高僧たちをも指導する立場にあった。東大寺、興福寺などの僧侶たちは、内心は ! 二人は同時期に遣唐使として中国へ渡るが、当時の最澄は天皇の帰依篤い貴賓待遇、空海は無名の自費留学生にすぎなかった。. 弘法大師としても知られる空海は、どんな人物だったのだろう。. 以下の資料に関連する記述があり紹介した。. その後の日本の歴史に大きく関わる寺院、 比叡山延暦寺 、 高野山金剛峯寺 を創ったことでも知られています。. この時空海は大使の藤原葛野麻呂 (ふじわのらかどのまろ)や副士の石川道益(いしかわみちます)留学生の橘逸勢(たちばなのはやなり)と第1船に乗りました。 . れた空海に対して最澄はあくまでも真面目である。 琵琶湖のほとりの豪族の子として生まれた最澄は仏門に入る。時代は桓武天皇 が国家事業として、新都造営(長岡京と平安京)、蝦夷(東北)征伐、遣唐使派遣 を推し進めていた頃にあたる。 空海たちの 第1船 は、8月10日に福州の赤岸鎮に漂着しましたが. 遣唐使に選ばれ、世の注目を集める最澄。 その選に漏れ、更なる荒行に邁進する空海。 仏教史に名を残す二人の天才が遂に運命の邂逅を果たす… 果たして彼らの思いは海を越えるか!? 第18次遣唐使船(大使「藤原葛野麻呂」)の第一船で、「真言密教」を求める留学僧として、中国へ渡海した「空海」(弘法大師)は、35日の漂流の末、804年8月10日、ここ「福建省寧徳市霞浦県赤岸鎮」の海岸に辿り着いている。 24歳からの7年間は詳しい足跡があまり知られていませんが、空海31歳の時に遣唐使(804)として唐に渡ります。最澄が国に認められた留学僧であったのに対し、空海は在野の僧侶でした。エリートの最澄と叩き上げの空海。日本仏教史上最大のライバルたちはここではじめて相まみえるのです。 空海は774年(宝亀5年)に讃岐国(今の香川県)に生まれ、本名は佐伯真魚(さえきまお)と言います。 15歳の時に父のすすめで学問のために都(奈良の平城京)に入り、18歳になると大学に入り儒教の勉強をしますが、わずか1年で中退をしてしまいます。 その時から仏教への関心が高まり、四国に戻ると各所の山々で修行に励むようになります。その名残が、空海が修行を積んだ場として有名な四国八十八箇所です。 空海がなぜ儒教から仏教の道に進むことになったのかは今だに謎ですが、24歳に著した … ©Copyright2021 歴史しんぶん.All Rights Reserved. 空海の入唐資格と末期の遣唐使 東 野 、》{・ムロ 之 一入唐前の空海 空海の生涯において、延暦二十三(八〇四)の入唐が大きな転機となった ない。それに注目しながら、空海の入唐に至る経緯と事情を再考してみたい。いってよかろう。 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年 4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。 弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖である。 俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお ) 。. 同じ年の遣唐使として、唐に渡って仏教を学んだ空海と最澄。 でも、彼らは同じ船に乗っていたわけではありません。この年派遣された遣唐使の船は4隻、そのうちの別々の船に乗っていました。 最澄たちが乗る第2船は長江に. 最澄は「四つの船」のうち第二船に乗ります。 空海は遣唐使の乗る第一船。空海は乗船の際に浜辺で最澄に挨拶をしたことでしょう。 二人の身分は大きくかけ離れていましたから、 最澄は若い留学僧のことなど、気にもかけなかったかもしれません。 空海から最澄へ書状「風信帖」。…風信雲書、天より翔臨す。… 11月15日: 空海による高尾山寺の金剛界灌頂。最澄は進んで受者となる。(空海自書:「灌頂歴名」) 12月14日: 空海による高尾山寺の胎蔵灌頂。最澄以下145名が受者となる。 813: 39 第16 次遣唐使船では、最澄は天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の僧侶だった。. 最澄は国の期待を背負った将来の幹部候補として留学、空海はその他大勢の留学生の1人として留学したのです。 すでに 比叡山延暦寺 を開創していた最澄が乗った船は 9 月に中国に到着し、天台教学を学ぶ。. 最澄と空海が遣唐使として入唐 - 今日のことあれこれと・・・ - goo; 空海と最澄が絶交した理由★「密教はただの机上の学問にあら. p204-207〈遣唐使〉の項 p205-206に〈遣唐使一覧〉あり。最澄・空海については〈学問僧・留学生〉および〈随伴者〉の項に記載があるが、遣唐使の任期に関する記述はなし。 自館目録を〈留学僧〉で検索する 『日本宗教史論集 上』(回答資料) 日本の仏教に大きな影響を与えた最澄と空海、2人について解説します。. 八〇三年、奇しくも同じ遣唐使船団に乗船した最澄と空海。 出典:Wikimedia Commons. 遣唐使として遂に唐に渡った空海と最澄。 天台で研さんを積む最澄と、長安で様々な出会いを繰り返す空海。 日本仏教の2大巨頭が唐の地でそれぞれつかんだものとは!? 空海も名前を聞く機会が非常に多い高僧かと思いますが、どんな方だったのでしょうか。 賴住 空海は最澄と同時代人で、しかも非常に深い交流がございました。もともと彼らはどちらも遣唐使の一員として、同じ船団で唐に渡っています。 役人に海賊と思われ. 教科書では「ふうん」で読み飛ばしてしまうけれど、当時の入唐がどれだけ危険か。空海と最澄は別々の船だったけど、四隻のうち一隻は行方不明(沈んだ)らしい。 漂流しながら到着するも国書がなくて上陸許可がおりない。 最澄は空海の7歳年上であり、二人は同時に遣唐使として唐の国へ渡ります。最澄は既に桓武天皇のもと、新しい仏教の中心として日本を代表して唐へ渡り、学ぶ立場でした。 空海はまだ留学生という立場で唐へ渡りました。 最澄が遣唐使として唐に渡った804年には、船は違いますが空海も留学生として遣唐使船に乗っていました。最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧でしたが、31歳の空海は全くの無名の若者でした。 「空海」は密教を完璧にマスターした 立場の違う2人は同時に唐に渡りますが、最澄が2年程度の短期留学、空海が20年の長期留学を朝廷から命じられていたと言われています。, 当時、遣唐使で唐に派遣され、帰国した人材は朝廷に重んじられました。帰国した最澄と空海もその後大きな仕事を成し遂げます。, 唐に渡った1年後 、最澄は滞在中に書き写した大量の経典と共に帰国します。最澄はすぐ、桓武天皇から密教儀式の一つである、灌頂を行うように命じられます。そして翌年、天台宗を開くことが認められます。これは当時の宗派であった南都六宗(奈良時代から栄えている6つの宗派)に準じる宗派とされ、異例のことでした。, 天台宗と言えば比叡山延暦寺ですが、実はこの延暦寺のもととなる寺院は、最澄が唐に渡る前、788年に一乗止観院として比叡山に作られています。延暦寺として寺を名乗ることが許されるのは、最澄の死後、823年のことです。, 一方、20年間の留学予定であった空海は、長安(現在の西安市)の西明寺、青龍寺で修行をしましたが、青龍寺の恵果は空海が十分に学問を修め、修行を積んでいることから、すぐに密教の奥義を伝授します。, この恵果の決定には唐の僧から異論も出たと言われていますが、恵果は唐の皇帝から3代に渡って師と仰がれている人物であり、奥義伝授はそのまま行われました。唐に渡るまで、空海は脚光を浴びることはなくとも、こつこつと学問を修め修行に励んできましたが、それがここで報われたことになります。, そして朝廷の許可を得て、留学を切り上げて帰国します。朝廷は許可はしましたが、あまりの早い帰国のため、809年まで平安京への立ち入り許可をしませんでした。その後、高野山金剛峯寺を開き、真言宗を宗派として確立し、823年に朝廷から宗派として認められます。, 日本に帰国した2人はそれぞれに活躍を始めますが、この頃すでに交流があったと思われています。空海の平安京入京許可が許された背景には、最澄の口添えがあったと言われています。そして2人の交流が本格的に始まると、奈良時代から栄えている南都六宗を凌駕する勢いで、天台、真言宗は教義を深め、宗派として地盤を強固なものにしていきます。, 資料によると、806年あたりから最澄は空海に経典を借りるようになります。印刷技術がほとんどなかった当時、そういったものは非常に貴重であり、持っている人に借りて書き写すというやり方が主流でした。そして812年に最澄は自分の弟子数人と共に、空海に弟子入りします。そのうち数人の弟子はそのまま空海のもとに置き、修行をさせます。空海は唐で密教の奥義を伝授、つまり、伝授のための「修行」をしています。唐で空海は、「修行」と「学問」をしているわけです。, 一方で最澄は、日本仏教界のエース格として唐に渡ったので、そこで新たな修行をするよりも、学問を行い、その結果を日本に持ち帰ることが主な任務でした。そのため、最澄が「正式な修行をして奥義を伝授されている空海」に弟子入りするのはそれほど不思議なことではありません。, 813年、最澄は空海に「理趣釈教」の借用を申し出ますが、空海はこれを拒否します。密教の本質は経典を研究するだけでなく、修行が必要であると空海が考えていたのがその理由とされています。この事と、先に最澄が空海のもとに置いた弟子の1人が最澄のもとに帰らなかったというエピソードも最澄と空海の訣別の原因とされています。 第2船には、最澄(さいちょう)が乗っています。 最澄は、若い頃から当時のエリートである僧として順調に成長し、狭き門を突破し、遣唐使として派遣されたとされています。 <WIKI:最澄> 一方の空海は、若い頃は無名で、 不明な点が多い存在です。 804年の遣唐使の際に、突如表舞台に登場します。 延暦(えんりゃく)23年遣唐使にしたがって最澄,空海らとともに入唐(にっとう)。大同(だいどう)元年に帰国。承和(じょうわ)の変の首謀者とされ伊豆(いず)に流される途中,承和9年8月13日遠江(とおとうみ)(静岡県)板築駅(ほんつきのうまや)で没した。 遣唐使の留学期間は20年で、帰りたくても帰れない人がいたが、空海や最澄は1年半から2年で帰ってきた。. 最澄はその後も仏教の研究を続け、仏教理論で南都六宗の僧と論戦をしながら独自の理論を作りあげます。, その結果、最澄がいる比叡山は仏教の総合大学のような形になります。鎌倉時代になると、鎌倉仏教と言われる6つの宗派が栄えますが、この6つそれぞれの宗派の祖となった6人のうち、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元の5人は、いずれも延暦寺で学んだ、あるいは修行経験があります。, 同じ時代に最澄と空海という2人がいたことは、奇跡と言えるかもしれません。どちらが欠けても、日本の仏教も違ったものになっていたでしょう。その後の歴史で、最澄の作り上げた仏教理論は多くの宗派を生み、日本の仏教文化の多様性に大きな影響を与えています。, また空海は弘法大師として民間に深く浸透し、仏教が日本に定着するために大きな役割を果たしました。2人が本拠とした、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺はその後の歴史で大きな役割を果たしています。延暦寺、金剛峯寺共に織田信長と敵対したことはよく知られている事実です。. 遣唐使に関連する有名な人物【最澄と空海】 最澄/さいちょう(766~822) 天台宗の開祖。12歳で出家し17歳で正式の度牒をもらいます。804年に遣唐使として唐に渡りますが、言語の問題で2年で帰国します。帰国後に密教を学び、比叡山延暦寺を開基、密教や法華経、禅などの教義を統合して … 魚津ケ崎の遣唐使寄泊地の碑: 三井楽の空海記念碑【辞本涯】(日本の最果ての地を去るの意) 遣唐使は、20回計画され、内15回唐に渡ることが叶った(諸説あり)。36隻が唐へ向かい26隻が日本に帰って来たので、7割強が成功している。 国書も他の証明書も途中の嵐で紛失した一行は. 伝教大師とも呼ばれる最澄と対比すると、分かりやすい。. 遣唐使 船が難波(なにわ)を出航したのは803年でしたが暴風雨にあい、1年間九州に留まったため、804年に九州を出発したと言う事になります。 ちなみに第3船と、第4船は遭難しました。 最澄と空海の時代をお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の入唐についてです。 ★還学生と留学生. 遣唐使に関連する有名な人物【最澄と空海】 最澄/さいちょう(766~822) 天台宗の開祖。12歳で出家し17歳で正式の度牒をもらいます。804年に遣唐使として唐に渡りますが、言語の問題で2年で帰国しま … 物語の舞台はいよいよ中国へ! 激動の第5集! 留学の期間が短縮できたのか。. 遣唐使【最澄】と【空海】の関係や違いとは?伝説や. 最澄とは 遣唐使船で唐に渡り天台宗をもたらした伝教大師最澄. 西暦804年 - 最澄、空海が唐へ. 平安時代になって新しい仏教(平安仏教)のあり方を切り開いた人物として挙げられるのが、遷都10年後の、延暦23年3月28日(新暦804年5月11日)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使・藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り、唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った2人の僧最澄と空海である。. 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお ) 。 「最澄」はエリート僧として、「空海」は無名の僧として唐に渡った 最澄が遣唐使として唐に渡った804年には、船は違いますが空海も留学生として遣唐使船に乗っていました。� 空海から最澄へ書状「風信帖」。…風信雲書、天より翔臨す。… 11月15日: 空海による高尾山寺の金剛界灌頂。最澄は進んで受者となる。(空海自書:「灌頂歴名」) 12月14日: 空海による高尾山寺の胎蔵灌頂。最澄以下145名が受者となる。 813: 39 危険極まりない遣唐使. 空海は、当時唐で流行り始めた密教を自分で学ぶ。それを極めるために、最澄らの遣唐使船へ同乗することとする。空海渡唐にあたっては、空海が出た佐伯氏一門の支援があったと思われる。 西暦804年、空海は34日間かかって唐に渡る。 八〇三年、奇しくも同じ遣唐使船団に乗船した最澄と空海。 最澄と同じく遣唐使で唐に渡った若い僧がいました。 空海です。 この空海と言う僧は、いわゆる天才でした。 18歳で、儒学、道教、仏教を比較する「三教指帰」という本を書き、ここで仏教は大変優れているものだと結論づけます。 空海は、貴族の家に生まれたので儒教を学んでおけば、そこそこの出世コースを歩めたのです。 空海は、この出世コースを嫌って、「永遠の真実」を明らかにしたいと欲したのです。 修験道を経たのち、空海は遣唐使に選ばれました。 空海は唐に行く前から「密教は素晴らし … 平安時代に共に唐に渡った、最澄と空海。 二人が帰国して開いたのが、比叡山で起こした天台宗と、そして空海が高野山で開いた真言宗です。 この2つの宗派は平安時代の日本の仏教の双璧をなします。 真面目な秀才型の最澄に対する天才型の空海の二人が成した偉業です。 遣唐大使が唐の長官宛てに書状を送りましたが. 日本の仏教に大きな影響を与えた最澄と空海、2人について解説します。最澄と空海は、平安時代の同じ時期に現れ、同じ時期に遣唐使として唐に渡り、日本で天台宗と真言宗を開きました。その後の日本の歴史に大きく関わる寺院、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺を創ったことでも知られています。同じ時代を生きた最澄と空海の関係と違いを、エピソードと伝説を交えて解説します。, 最澄が生まれたのは766年、または767年、空海は774年に生まれたと言われています。2人が遣唐使として唐に渡ったのは804年。ここまでの人生に大きな違いがあります。当時の仏教は、学問としての性質が強く、僧になるということは学問の道に進むと言うことでした。, 最澄は12歳で仏門に入り、僧になってから学問の道に入ります。 一方で空海は、大学寮(国の官僚を養成する機関)で学問を始め、そこで学ぶことに飽き足らずに19歳で仏門に入ったと言われています。唐に渡ったときには最澄は36か37歳、空海は30歳。年齢以上に立場の違いがありました。, 最澄はすでに仏教界で地位を築き、天皇との関係も構築していました。一方で空海は、中国語能力は高いとされていたものの、それほどの地位・評価を得ていたわけではありませんでした。つまり、 最澄と空海の時代をお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の入唐についてです。 ★還学生と留学生. 15回目の遣唐使船の出港となります。 . 最澄とは 遣唐使船で唐に渡り天台宗をもたらした伝教大師最澄. 804年、最初の遣唐使が中国を目指す。天台宗をおこす最澄と、真言宗をおこす空海という2人の僧が乗った。比叡山・延暦寺、高野山・金剛峯寺は今も信仰を集めている。 れた空海に対して最澄はあくまでも真面目である。 琵琶湖のほとりの豪族の子として生まれた最澄は仏門に入る。時代は桓武天皇 が国家事業として、新都造営(長岡京と平安京)、蝦夷(東北)征伐、遣唐使派遣 を推し進めていた頃にあたる。真面目に12年の山籠もりをした後、桓武天皇の近 上陸の許可がされませんでした. この松の木の葉っぱには3本に分かれているものが混じっていて、持っていると幸せになれると言われています。, 空海が真言密教を開く場所を探して求めている時に、奈良で白と黒の2匹の犬を連れた狩人と出会います。, その狩人にふさわしい場所がないか尋ねると、この2匹の犬に案内させましょうと言われ、空海は犬に導かれるままついて行きました。, 途中、とある神社で夜を明かしていると夢枕に女神が現れ、この山(高野)を永遠に献上しましょうと告げられます。, この時の神社が今でも高野山の麓にある丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)で、狩人は狩場明神(かりばみょうじん)、女神は丹生明神(にうみょうじん)だと言われていて、空海が高野山で真っ先に創ったのが壇上伽藍にある両神を祀る御社でした。, 今昔物語集という本を聞いたことがあると思いますが、何とこの今昔物語集の中に空海が高野山を選んだ時の話しが書き残されています。, それによると、奈良と和歌山の境まで2匹の犬を連れた狩人に案内されて、それから先は山民に導かれたとありますが、いずれにせよ神様のお導きによって空海は壇上伽藍にある三鈷の松を見つけることができたのです。, 世界遺産に登録された天空の宗教都市・高野山には1200年もの歴史を垣間見ることができる寺院が建ち並んでいます。. 同じ年の遣唐使として、唐に渡って仏教を学んだ空海と最澄。 でも、彼らは同じ船に乗っていたわけではありません。この年派遣された遣唐使の船は4隻、そのうちの別々の船に乗っていまし … これはなぜか。. 唐に渡るまで、空海は脚光を浴びることはなくとも、こつこつと学問を修め修行に励んできましたが、それがここで報われたことになります。, フランス革命【マリーアントワネット】は高飛車な性格?死因や死刑になったエピソードを分かりやすく解説. 『阿・吽』の最澄と空海も同様です。子どものころから優れた人物と認められ、国分寺で学んだ最澄は、紆余曲折がありながらも国によって正式な遣唐使のメンバーとして選ばれ、桓武帝らから資金援助を得て唐に向かいます。 なお、まだ得度したばかりで、まだ無名の 空海 (第1船)とおなじ時期だったようで、エリートの最澄は、遣唐副使の第2船に乗船したようです。 遣唐使 船が難波(なにわ)を出航したのは803年でしたが暴風雨にあい、1年間九州に留まったため、804年に九州を出発したと言う事になります。 最澄と空海は、平安時代の同じ時期に現れ、同じ時期に遣唐使として唐に渡り、日本で天台宗と真言宗を開きました。. 最澄は天皇のために祈る最高位の僧侶「内供奉十禅師」の一人として、遣唐使の船に乗り込む。いわば仏教使節団の団長というところ。この時点で最澄は最先端の仏教の担い手であり、奈良の南都六宗の高僧たちをも指導する立場にあった。東大寺、興福寺などの僧侶たちは、内心は そして、二人に重大な岐路が訪れ--運命と選択の第6集! しかし最近になって、それが主な理由ではないのでは?と言われ始めています。なにはともあれ、816年頃には最澄と空海の2人は訣別しました。, 空海と訣別した最澄は、天台宗に密教の本質的な要素を入れることを諦めます。しかしこれが、考え方の多様性を生むこととなり、鎌倉仏教の繁栄につながったという考えがあります。空海は弘法大師ともよばれ、空海自身が信仰の対象となりました。 [mixi]空海と最澄 第16次遣唐使船の空海と最澄 やはり、空海と最澄を結びつけるものは第16次遣唐使船に乗り込んだということだろう。4隻のうち2隻が沈む。しかし空海と最澄、両者とも唐にわたることが … 最澄ら遣唐使は、4隻の船に分かれて中国に向かうも、暴風雨で船は難航。最終的に中国にたどり着けたのは、4隻のうち2隻だけでした。 最澄は中国で天台教学を学んだ他、禅の教えや密教の伝法を受け、数か月後に日本に帰国しています。 そこで、空海さんは自ら中国に渡って学ぶことを決意しました。 このあたりが歴史で学ぶ【空海さんと最澄さんが遣唐使船に乗って唐に向かう】ところです。 ちなみに、留学といっても今みたいに安全に行くことはできません。 遣唐使とは、7世紀から9世紀の中国の王朝・唐への使節団員のことです。当時の最先端である中国の文化などを日本に持ち帰ることを目的に組織されました。最澄ら遣唐使は、4隻の船に分かれて中国に向かうも、暴風雨で船は難航。最終的に中国にたどり着けたのは、4隻のうち2隻だけでした。 世界遺産に登録された天空の宗教都市・高野山には1200年もの歴史を垣間見ることができる寺院が建ち並んでいます。, 弘法大師こと空海は仏教の勉強をするために、遣唐使に随行する形で唐(今の中国)へ行きます。, 空海が高野山を真言密教を開く聖地として選んだ理由が、その唐からの帰りに隠されています。, 空海伝説の一つとして今も語られる高野山誕生の秘話、空海の人物像とともに紹介しましょう。, 空海は774年(宝亀5年)に讃岐国(今の香川県)に生まれ、本名は佐伯真魚(さえきまお)と言います。, 15歳の時に父のすすめで学問のために都(奈良の平城京)に入り、18歳になると大学に入り儒教の勉強をしますが、わずか1年で中退をしてしまいます。, その時から仏教への関心が高まり、四国に戻ると各所の山々で修行に励むようになります。その名残が、空海が修行を積んだ場として有名な四国八十八箇所です。, 空海がなぜ儒教から仏教の道に進むことになったのかは今だに謎ですが、24歳に著した『聾瞽指帰(ろうこしいき)』という巻物には、儒教や道教よりも仏教が最善であると書き残されています。, 空海という名をいつから名乗っていたのかも謎のままですが、この聾瞽指帰は仏教を認めない親族に宛てた空海の『出家宣言の書』だと言われています。, 804年(延暦23年)、空海は31歳の時に遣唐使に随行する留学生として唐に渡りました。, 実は、誰が空海を留学生として選任したのかも謎のままですが、この時に空海とともに唐へと渡った遣唐使の中には、後の天台宗開祖となる最澄(さいちょう)がいました。, 唐の都・長安に渡った空海は、その半年後に密教の国師である恵果和尚(けいかおしょう)に師事し、約半年にわたって密教の勉強に励みます。, 恵果和尚は空海の才能を見込み、密教の奥旨(おうし)を全て授け『遍照金剛(へんじょうこんごう)』の称号を与えて、正式な密教の伝承者として早く日本へ帰り密教を広めるようにと言い残し亡くなります。, 当時の遣唐使の留学生には20年間の滞在義務があったのですが、空海は帰国する遣唐使に半ば強引に便乗し、わずか2年で日本へと帰ることができました。, 806年(大同元年)、空海は唐より帰国することができたのですが、その帰国の際に明州(現在の寧波)の港から恵果和尚より授かった三鈷杵(さんこしょ)という密教仏具を東の方角に向けて投げました。, その三鈷杵は空高く5色の雲に覆われ日本の方へと飛翔したと言い伝えられていて、『飛行三鈷杵』として重要文化財に登録されています。, 帰国後の空海は規約違反という事で長いこと都に入ることを許されなかったので、密教を広めるのに相応しい場所を求めて探し歩いていました。, そして、高野山の今の壇上伽藍まで来た所、何と松の木の枝に三鈷杵が引っかかっていたのです。, それを見た空海は、こここそ真言密教を広める伽藍建立に最も適した場所だと、816年(弘仁7年)に嵯峨天皇に賜り許しを得て、翌年から大勢の弟子たちとともに伽藍を築きはじめました。, 先程の三鈷杵が引っかかっていた松の木は、三鈷杵にちなんで『三鈷の松』と呼ばれていて、今でも壇上伽藍の根本大塔の近く、御影堂の前にそびえています。 空海(弘法大師像). 遣唐使として同時期に海を渡った最澄と空海。最澄は法華経ほか密教の一部をわずか6ヶ月で日本に持ち帰り、天台宗の延暦寺を開き、空海は1年8ヶ月間唐に滞在し、密教の全てを恵果和尚より授かり帰国、高野山に真言宗の寺を開き、このように同時期に天台宗と真言宗が出来ました。 空海と最澄の関係. p113-122「留学期間と留学生数」の項に、以下の記述あり。. 情報・テキスト. 平安時代のはじめ、遣唐使(けんとうし)に随行して、空海は入唐し、西安(もと長安)の青龍寺の恵果に密教を学び、帰朝して真言宗を開き、一方、最澄も、同じく入唐し、杭州の天台山国清寺の行満、道邃らに天台教学を学び、帰朝して天台宗を開きました。 遣唐使が何度計画され実施されたか、諸説があり私は18回、実際に中国へ渡ったのは15回と考えています。人によっては20回という方もいます。空海・最澄は第16回「延暦(えんりゃく)の遣唐使」、円仁は17回「承和(じょうわ)の遣唐使」で中国渡っています。 高野山の見どころ満載!高野山観光案内所