H. アスキス(首相在任: 1908年 - 1916年)の2代の自由党内閣の下での9年間の野党経験を経て、1914年に第1次世界大戦が勃発したことに伴いアスキスの挙国一致内閣に参加する形で政権に復帰した。この間1911年には落選後1906年のシティー・オブ・ロンドン選挙区の補欠選挙で復帰していたバルフォアに代わってアンドルー・ボナー・ローが党首に就任した。1916年には戦争指導を巡って閣内対立が生じ、保守党はデイヴィッド・ロイド・ジョージ(首相在任: 1916年 - 1922年)ら首相批判派に同調した。その結果アスキスは辞任しロイド・ジョージが後任に収まった。1918年の戦争終結後も保守党は連立政権を維持したが、自由党の方は連立継続を巡ってロイド・ジョージの連立派とアスキスの野党派に分裂した。この結果ロイド・ジョージ派は単独では庶民院での過半数を失ったため保守党に政権の基盤を依存せざるを得なくなった。一方の保守党では党首のボナー・ローが病気のため1921年に辞任し、連立維持に積極的なオースティン・チェンバレンが後任となった。, 1922年にボナー・ローとスタンリー・ボールドウィンは自由党との連立政権の崩壊を主導し、保守党党首に返り咲いたボナー・ローついでスタンリー・ボールドウィンが保守党単独政権を組閣したが、1923年の総選挙で保守党は第一党を保持したものの、自由党の閣外協力を取り付けたラムゼイ・マクドナルド率いる労働党政権が誕生した。この初の労働党政権はジノヴィエフ書簡事件などの為、同年の総選挙での敗北で崩壊した。再び保守党のボールドウィンが組閣したが1929年に労働党に再び総選挙で敗れて下野した。しかし労働党のマクドナルド内閣はこの年起こった世界恐慌への対応策として年金削減等を行ったことで労働党から除名され、1931年マクドナルドは自由党、保守党を加えて労働党を除いた「国民政府」とよばれる内閣を組閣し1935年まで続いた。1935年にマクドナルドは病気引退し、ボールドウィンついで1937年にはネヴィル・チェンバレンが国民政府を継承し組閣した。しかし、チェンバレンは独裁者アドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツに宥和策をとり続けた結果、ポーランド侵攻をまねき第二次世界大戦が始まった。1940年にフランスの敗勢が明らかになるとチェンバレンは退陣した。代わってウィンストン・チャーチルは保守党、労働党、自由党からなる挙国一致内閣を組閣し、そのリーダーシップで第二次世界大戦を戦った。しかし、第二次世界大戦の対ドイツ戦勝利後の総選挙で労働党に敗北し、チャーチルは下野し、クレメント・アトリーに首相の座を明け渡した。, 1975年イギリス保守党党首選挙(英語版)では、初めての女性党首マーガレット・サッチャーが誕生した。, サッチャーは1979年の総選挙で労働党ジェームズ・キャラハン政権を退陣に追い込み、同年5月4日に英国史上初の女性首相に就任し、1990年11月28日に辞任するまで、在任期間11年と208日間という20世紀以後では最長、歴代首相では7番目の長期政権を築いた。彼女は、内政ではサッチャリズムと呼ばれる新自由主義政策を実施し、外交ではフォークランド紛争などで成果を残した。, 1990年イギリス保守党党首選挙(英語版)では、ジョン・メージャーが当選し、サーチャーの後任に就いた。, 「ニューレイバー」を標榜する労働党のトニー・ブレア政権(1997年-2007年)下で、中流階級の支持は労働党や自由民主党へ流れ、支持層がイングランドの富裕層に偏るなど、党勢の衰退が指摘され、2005年の総選挙ではスコットランドで1議席しか獲得できず、一時はマスコミに「保守党は死んだ」とまで書かれるほど深刻な状況に陥った。, しかし、総選挙の敗北を受けて行われた党首選(英語版)で39歳のデービッド・キャメロンを選出したことで、徐々に党勢の立て直しに成功。複数の世論調査の支持率で労働党を逆転した。2006年に行われたイギリスの統一地方選挙では1992年以来最高となる316議席を獲得。2007年に誕生した労働党ゴードン・ブラウン政権の支持率が低迷する中、翌年3月の支持率調査では20年来で最高水準となる16%の差をつけてリードした。同年秋の金融危機では政権批判を強めたが、既存の金融エリートと保守党との深い繋がりから支持率が伸び悩むなど、旧来の支持層との関係において依然として困難な課題を抱えていることを露呈した。世界金融危機後は政策の保守色を薄めて中道化し、2009年に入り支持率に労働党と再び二桁の差をつけるなど、政権奪還に向けて攻勢を強めた。, 2010年の総選挙では、一時は自由民主党が世論調査でトップに躍り出たが、終盤になって保守党は優位を固めた。選挙の結果、保守党は13年ぶりに第1党を奪回したが、単独過半数には届かなかった。このため、議会は単独過半数を制する第一党が存在しない、ハング・パーラメント状態となり、第3党の自由民主党との連立政権樹立で合意。同年5月11日に第1次キャメロン内閣成立、デーヴィッド・キャメロン政権が発足した。, キャメロン政権は財政健全化のために緊縮財政や増税、福祉や公共サービスの削減に取り組んだ。しかし、景気は一向に上向かず、若年層を中心に不満が爆発。国内で暴動が頻発し、警官隊と市民が衝突する異常事態となった。2012年5月に迎えた統一地方選挙では、連立を組む自由民主党と合わせて700議席以上を減らし惨敗、対する労働党は800議席以上を増やし圧勝した。, 2015年の総選挙前の世論調査では概ね労働党と支持率が並んでいたものの、実際の得票率では6.5ポイントの差をつけ、単独過半数を制した。この結果、自由民主党との連立を解消、保守党単独政権となった。, 2016年6月のイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票で離脱票が残留票を上回ったため、残留派だったキャメロンは首相・党首を辞任し、それによって実施された2016年イギリス保守党党首選挙では、内相だったテリーザ・メイが党首、首相となった。, 2017年、メイ首相は党勢の拡大を狙って下院の解散に踏み切り、総選挙が行われた。解散時の世論調査では労働党を支持率で大きく上回っていたが、選挙期間中に支持率が労働党と拮抗するようになり、実際の投票結果は改選前から議席を減らし、単独過半数を下回る一方、労働党も過半数を獲得できなかったため、再びハング・パーラメント状態となった。保守党は、北アイルランドのユニオニスト右派政党、民主統一党[注釈 1]の協力を得て、政権を維持しようとした。6月26日、保守党は民主統一党の閣外協力を得ることで正式合意した[18]。しかしEUとの離脱交渉を経た協定案を議会に承認させることに失敗し、2019年6月にメイ首相は党首及び首相辞任を表明。党首選挙の結果、離脱強硬派のボリス・ジョンソン前外相が新党首に就任した[19]。2019年7月24日、第1次ジョンソン内閣成立。, 2019年12月12日の総選挙では、得票率43.6%で365議席を獲得し、第一党を維持する。同年12月13日、第2次ジョンソン内閣成立。, 2020年以降は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)感染拡大の対応に追われる。, 低所得層や都市部出身者、若年層からの支持が多い労働党に対して、保守党は富裕層や地方出身者、中高年層からの支持が多い。, 保守党は一国保守主義[23]を筆頭に自由保守主義[24]、社会保守主義、サッチャリズム、伝統保守主義、新保守主義、欧州懐疑主義、親欧州主義、キリスト教民主主義、地域主義そして緑の保守主義など様々な内部派閥やイデオロギーを抱えている。, 一国保守主義は1970年代にサッチャリズムが台頭するまで党内で支配的地位にあった思想である。元首相のスタンリー・ボールドウィンやハロルド・マクミラン、エドワード・ヒースらが属していたとされる。名称自体は同党元党首・首相であるベンジャミン・ディズレーリに由来する。, 一国保守主義者は社会的結束を信じ、各種利益団体、階級、そして近年では様々な人種や宗教間の調和を維持する社会制度を支援している。一国保守主義者はエドマンド・バークとその市民社会の強調を社会の基盤としあらゆる種の急進的な政治に反対している。欧州連合に対する見解は支持者の間でも割れており支持する者もいれば強固に反対する者もいる。, 貴族院出身首相となることを避けるために首相、保守党党首就任直後に爵位を一代限りで返上する。, https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191214/k10012214751000.html, Tories hail big rise in party membership, because ‘everyone loves the prime minister’, https://books.google.com/books?id=nHNOT1OHPVMC&pg=PA141, “Competing on the centre right: An examination of party strategy in Britain”, http://www2.le.ac.uk/departments/politics/research/research-projects/centre-right, Capping welfare and working to control immigration, UNITEDKINGDOM - Parties and Elections in Europe, Unionism and the Conservative Brexit deal rebellion, Unionism, Conservative thinking and Brexit, メイ英政権、保守地域政党と閣外協力で合意 野党は「無謀」「袖の下」と 2017年06月27日, https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49589251, London Riots 26th March 2011 (キャメロン政権時の暴動), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=保守党_(イギリス)&oldid=82988904, 1945年 ヨーロッパ戦線の終結により、挙国一致体制終了。保守党のみの選挙管理内閣となる。. Pocket Books [Simon & Schuster]. Gimson, Andrew (2006 [2007]). イギリスの政党政治の歴史は17世紀後半にさかのぼります。 イギリスではピューリタン革命後の王政復古の頃に、王権を擁護するトーリ党と国王に批判的ホイッグ党が生まれました。 これ以来二大政党制が確立しています。 イギリスにおける国民保健サービス (nhs) は医療スタッフの不足や過重労働、また病院での待ち時間の長期化や手術の先送りなどの問題を抱えている 。 保守統一党(ほしゅとういつとう、英: Conservative and Unionist Party )は、イギリスの政党。王政復古期のトーリー党に起源をもつ中道右派政党である 。正式名称はスコットランドと北アイルランド以外ではあまり使用されず、通常は保守党(ほしゅとう、英: Conservative Party)を党名として使用する。国際民主同盟に加盟 。 アレグザンダー・ボリス・ド・フェファル・ジョンソン(英語:Alexander Boris de Pfeffel[注釈 1] Johnson、Hon FRIBA、1964年6月19日 - )は、イギリスの政治家。第77代イギリス首相、第28代保守党党首。, ジャーナリスト、歴史家、庶民院議員を2期、第2代ロンドン市長(2期)を歴任し、その後再び庶民院議員、テリーザ・メイ政権での第18代外務・英連邦大臣などを経て、2019年7月23日に第28代保守党党首に選出。翌7月24日に第77代イギリス首相に就任した。, 1964年6月19日にスタンレー・ジョンソン(作家、欧州議会議員)と最初の妻シャーロット・フォーセットの長男としてニューヨークで誕生した[2]。後に家族とともにイギリスに戻った。イートン校、オックスフォード大学ベリオール・カレッジを卒業[3]。専攻は古典(ラテン語と古代ギリシャ語)[4]。大学ではブリンドン・クラブに所属[5]。, オスマン帝国末期の内務大臣だったアリ・ケマルの子孫である(父方の祖父であるオスマンは、第一次世界大戦中にイギリス国籍を取得、自らの母親の旧姓であるジョンソンを姓に定めた)。父方の先祖にはイギリス王ジョージ2世がいる。ジョージ2世の玄孫であるヴュルテンベルク王子パウルが女優である愛人との間にもうけた庶出の娘が、ジョンソンの高祖母にあたる(ド・プフェッフェル (de Pfeffel) は高祖母の嫁いだ男爵家の家名である)。ただし庶子を通じての血筋を引くに過ぎないため、英国王位継承資格は認められない。母方の先祖には、ユダヤ系ロシア人で、アメリカで古文書学者となったイライアス・ロウ(英語版)がいる[6]。彼は多国籍にわたる先祖(キリスト教徒、ユダヤ教徒、ムスリムからなる)についてふれ、自らを『るつぼからなる人間』(one-man melting pot)と称している[7]。, 大学卒業後の1987年、アレグラ・モスティン=オーウェンと最初の結婚をしている。同年L.E.K.コンサルティングに就職するが、退屈のあまり1週間で退職[8]、家族のコネで保守系紙『タイムズ』で働き始めるが、エドワード2世の宮殿を巡る歴史考古学関係の記事で学者の発言をでっち上げたため、すぐ解雇されている[9]。続いてやはり保守系紙の『デイリー・テレグラフ』記者となり[3]、1989年から1994年まで同紙のEC特派員となった。ブリュッセルに駐在していたジョンソンは反EC色の強い記事を書き続け、特に欧州統合の強力な推進者であったジャック・ドロールを厳しく批判、ECの首都たるブリュッセルの地にあって、数少ない欧州懐疑主義のジャーナリストとして知られるようになっていった[10]が、当時の彼を知る記者たちの多くは、彼の記事はECの信用を傷つけるために虚偽の事実や誇張を交えていたと批判的に振り返っている[11]。, こうした記事によって、彼は欧州懐疑派の代表的な人物として知られるようになる[12]。また以前は左派によって主張されることが多かった欧州懐疑主義を、右派にとって魅力的なものに変貌させるのに大きく貢献した。その影響は現実政治の世界にも及び、1990年代前半のイギリス独立党の出現に一役買ったとされている上[13]、保守党内における親欧州派、懐疑派の軋轢を刺激することにもつながったという[14]。首相としては欧州と距離を置きがちであったマーガレット・サッチャーもジョンソンの記事の愛読者であったとされるが、マーストリヒト条約の締結に尽力するなど欧州との関係修復に尽力した後任首相のジョン・メージャーにとっては、ジョンソンは煙たい存在であり、当時の外務・英連邦省ではジョンソンの記事に対応する特別チームが設けられるほどであった[15]。1997年総選挙における保守党大敗、政権転落の大きな原因の一つは党内における欧州懐疑派の台頭に伴う混乱とされているが[16]、ジョンソンの記事はそうした混乱の一因とみなされたため、その後しばらく保守党の政治家たちの不興を買うことになった[17]。, 1993年にアレグラと離婚し、同年に幼馴染のマリーナ・ホイーラーと結婚し、4子をもうけた。, 1994年にロンドンに戻ると政治コラムニストとなり、ユニークなスタイルで評価を得る一方、黒人、ゲイへの差別的な記事や植民地支配を賞賛する記事で物議を醸した。『スペクテイター(英語版)』誌の政治コラムニストを経て、1999年から同誌の編集者となり、政界入り後、2005年に影の内閣の高等教育大臣に任命されるまで務めた。, 2001年からは庶民院議員を2期務めた。2004年にはタブロイド紙によって、2000年以来『スペクテイター』の記者と恋愛関係にあり、2度妊娠(1度は流産、1度は中絶)[18]させていたことを暴露された。ジョンソンは当初否定していたが、事実と判明した後、党の役職を解かれた[19]。, 2008年5月にロンドン市長に就任した。市長就任後、ジョンソンは『デイリー・テレグラフ』紙においてウィークリー・コラムを再開することを発表した。『ガーディアン』紙は、彼がコラム執筆を年俸25万ポンドで同意したと報じている(年俸のうち2万5千ポンドずつ、ジャーナリズムを学ぶ学生の奨学金、古典学を学ぶ学生の奨学金に寄付している)[20]。同年8月の中華人民共和国での2008年北京オリンピックの閉会式で五輪旗を引き継ぎ[21]、2012年ロンドンオリンピックの準備を行った。, 2009年に、芸術コンサルタントのヘレン・マッキンタイアとの間に女児をもうけていたことが後に暴露された[22]。, 2012年5月3日に投票が行われたロンドン市長選挙においてケン・リヴィングストンを破り、再選を果たした[23]。2期目在任中の2015年5月7日、再び庶民院議員に当選した。市長は2016年5月9日まで務めた。, 2014年11月に、「イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドは同じ国家元首を共有している」としてこれらの国とシェンゲン協定のようなものを結ぶ構想(俗にCANZUK(英語版)、アングロスフィア(英語版)と呼ばれるもの)を提唱して物議を醸した[24]。, 議員としても、かねてから「欧州連合(EU)の規制で経済的関係が強い中国とのFTAが結べない」と発言[25][26]するなどEUに批判的な言動で注目を浴びており、2016年6月23日に実施されるEUからの離脱の是非を問う国民投票においてどのような立場に立つか、注目を集めていたが、2月21日に「ずいぶん頭を悩ませたが、他の余地はない」として離脱を支持することを表明、以後はブレグジット(Brexit)推進派で離脱の旗振り役として積極的に活動した[27]。アメリカのバラク・オバマ大統領が英国のEU残留を求めた際には、「オバマにはケニア人の血が入っており、反英感情がある」と発言、人種差別的であるとして物議を醸した[28]。, その国民投票にて離脱派が勝利したことによって、デーヴィッド・キャメロン首相が首相及び保守党党首を辞任することを発表した際にはポスト・キャメロンに期待されたが、ジョンソンは2016年イギリス保守党党首選挙には名乗りを挙げなかった[29]。その後、保守党党首に選出されたテリーザ・メイが新首相に任命されて、新内閣(第1次メイ内閣)を組閣するに当たり、ジョンソンが外務・英連邦大臣に起用された[30][31]。ジョンソンの外務・英連邦大臣就任を記者会見中に知らされたアメリカのマーク・トナー国務省報道官は失笑した[32]。初の対外公務となったフランス大使館でのレセプションでは招待客からブーイングで迎えられ、さらにフランスのジャン=マルク・エロー外相からは「嘘つき」だと名指しで批判された[33]。2018年7月9日、メイ首相の穏健なEU離脱方針に反発したため外務・英連邦大臣を辞任した(第2次メイ内閣)。後任には、ジェレミー・ハントが就いた[34]。, 2019年6月7日にテリーザ・メイが党首辞任を表明したことを受けた保守党党首選挙に出馬し、5回の議員投票では一貫して1位を保ち、ジェレミー・ハント外相との決選投票に進出[35]。党員投票の結果、9万2153票を獲得し、4万6656票のハントを下し、7月23日に新党首に選出された[36]。翌7月24日、バッキンガム宮殿でエリザベス2世女王に謁見し組閣の大命(首相の任命)を受け、正式にイギリスの首相となった。, ダウニング街10番地の首相官邸前で就任演説を行ったジョンソンは、「この国をもっと良くしたい」と宣言した。また、10月31日に欧州連合(EU)離脱を実現する予定については、「『たられば』はなしだ」と強調し、「決定権は私にある」と表明した。その上で、期日までのブレグジット(イギリスのEU離脱)について「疑う人、悲観的な人、悲しみに暮れている人」は間違っていると述べた[37]。, 第2次メイ内閣の後継政権として成立したジョンソン内閣の主要ポストにはブレグジット(イギリスのEU離脱)強硬派を置く新内閣を発表し、7月25日朝に初閣議を開いた[38]。「モダン英国内閣」と呼ばれるこの内閣は、33閣僚のうち8名もの女性閣僚、BAME (黒人―Black,、アジア人―Asian、少数民族―Minority Ethnicの頭文字をとったもの)のルーツをもつ非白人閣僚4名が起用されており、ガーディアン紙は「民族的には多様だが、思想的には均質」と評している[39]。いっぽうでこの組閣に際して、11名もの閣僚を解任し、他の6名の辞任を受けた。ジョンソンの同盟者であるナイジェル・エヴァンスは「夏の大虐殺に値するほどの改造ではない」とした[40]。, 香港Phoenix TVとのインタビューで、ジョンソン内閣は非常に「親中内閣」になると述べた。 ジョンソンは中国の習近平国家主席のインフラの投資努力、一帯一路への「熱狂的な支持」を表明し、英国を中国の投資のため「ヨーロッパでもっとも開かれた経済」を維持することを約束した[41]。, 2019年8月28日、ジョンソンは9月12日から10月13日までのあいだ(14日に再開)英国議会を閉鎖する要請をエリザベス女王に提出し、承認された。これにより新法可決もしくは不信任投票を行うことで強硬離脱防止を狙う反対派は議論の時間がより制限されたものとなった。庶民院議長のジョン・バーコウはこの決定を「憲法違反」だと述べ、強く非難した。また労働党党首のジェレミー・コービンは、「議会を中断することは容認できず、それは不可能だ。首相がやっていることは、民主主義を強引につかんで合意なしへと引きずり込むことだ」と述べた。ウェストミンスターに集まったデモ隊は反離脱のプラカードとEU旗を携え、「クーデターは止めろ!」と連呼した[42]。, 2019年9月3日、さらなる離脱期限の延期なら「ノタレ死“DEAD IN A DITCH”のほうがマシ」と述べるジョンソン[43]は元閣僚(フィリップ・ハモンド)、チャーチルの孫、最年長の現職議員らをふくむ21名を強行離脱を避けるために政府に反抗したとして保守党から解任した。彼らは、内閣初の重要な投票でジョンソンを敗北させ、政府だけが新しい法律を提案できるとする庶民院の規定を無効とした。また、野党とともにEU離脱期限(デッドライン)を既定の10月31日から2020年1月31日まで延期するよう求めるとした。つづく5日には閣外大臣を務める自身の弟ジョー・ジョンソンもツィッタ―上で辞意を表明[44]、庶民院議長バーコウも10月中の退任を発表した[45]。21名もの追放処分は前例のない処置とされ、その動機に関してエリザベス女王を誤解させたことも併せてメディアに非難された[46][47][48]。ジョンソンの強行路線は逆に反対派の抵抗を強める結果となった。, 9月24日、英国最高裁はさきのスコットランド高裁での判決同様、議会閉鎖は「違憲」で「無効」である旨の判決を下し、議長ジョン・バーコウは25日の議会再開を宣言した。これにより強行離脱も辞さないとしたジョンソンの目する10月末までの離脱はより見通しづらい状況となった[49]。しかし12月の総選挙で保守党は圧勝し、2020年1月31日をもってイギリスはEUからの離脱を果たした[50]。, 新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) のイギリスでの流行拡大にかかる危機が、首相に就任して一年足らずのジョンソン首相にのしかかることとなった[51]。当初、イギリスは集団免疫の獲得を目的とした独自の対応策を採用していたが、最終的に数十万人が死亡する予測だったことから批判を浴び、方針転換を余儀なくされた[52]。, 2020年3月27日、新型コロナウイルス感染症の検査を行ったところ、陽性反応であったことを明かした[53]。その後は自宅に自主隔離を行い[54]、会議にはテレビを通じて参加。高熱などの症状が続き、4月5日には念のため検査入院したが[55]、翌6日に、意識はあるものの容態が悪化し、人工呼吸器が必要になった場合に備えて集中治療室に入った[56][57]。その後持ち直し、9日夕方に集中治療室から出て一般病棟に移った。12日、退院した[58][59]。27日、公務に復帰した[60]。, 2020年、ファイザーとビオンテックが共同開発した新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) ワクチン接種を表明。.