このとき薩摩を指揮したのが、まだ30代の若かりし大久保利通と言われる。また、この薩英戦争には、その後の日露戦争の英雄や大臣として国を引っ張って行く、山本権兵衛、東郷平八郎、大山巌、その他が、国の一大事と従軍している。彼らも、10代・20代という若さであった。ここで、イギリスという世界帝国を体感した。薩摩はこれからイギリスと接近することになるが、日英戦争の意義は日本にとっても、非常に大きかったと言える。, 馬関戦争もその原因から説明しないと解らない。また、ここでも、できるだけイギリスや諸外国に関する動きに限って記述する。書きたいことは山ほどあるが・・・。, 馬関戦争は呼び方としては総称として使われる場合もある。戦争自体は、1864年に長州藩が4国連合艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)に砲撃され、長州海軍が壊滅的打撃を受けたものである。壊滅的と言っても、長州海軍はもともと貧弱ではあったが・・・。 1 「高慢と偏見」オースティン(1813年)ちくま2冊1996円. イギリス人が発見した入り江にデンマーク=ノルウェーが最初の入植地を築いたのであるが、当時のイギリスは前世紀の英蘭戦争でオランダを凌駕した勢いを駆って、アメリカ大陸やインド亜大陸におけるフランスとの植民地獲得競争に向かっていた。 17世紀後半から19世紀初頭まで1世紀以上にわたって断続的に戦われたイギリスとフランスとの間の戦争。第二次百年戦争ともよばれる。両国はヨーロッパのみならずインドや北アメリカでも戦った。, 17世紀中葉に市民革命を体験し、議会を通じて重商主義政策を推進する時代に入っていたイギリスと、それに対抗して自国の商工業の保護・振興を図るフランスは、ともに、藍(あい)、サトウキビ、タバコ、綿花などの商品作物の生産地として、また自国製品の輸出先として、植民地を必要としていた。この植民地をめぐる攻防が、両国の外交・戦争政策の動向を大きく規定することになった。, まず、ヨーロッパにおけるファルツ継承戦争(プファルツ戦争、1689~1697)が北アメリカでウィリアム王戦争(1689~1697)としてイギリス・フランス間で戦われたのを皮切りに、両国は、ヨーロッパで大戦争が起こるたびにつねに敵味方に分かれて戦い、また植民地でも争った。スペイン継承戦争(1701~1714)のときにアン女王戦争(1702~1713)、オーストリア継承戦争(1740~1748)のときにジョージ王戦争(1744~1748)、そして七年戦争(1756~1763)のときにフレンチ・アンド・インディアン戦争(1754~1763)が戦われた。, 1763年に結ばれたパリ条約は、インド、北アメリカの植民地争奪戦におけるイギリスの勝利を確認したもので、アメリカ独立戦争、フランス革命戦争・ナポレオン戦争も、このイギリス優位の体制に対するフランスの挑戦という一面をもっている。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例. 紀元前 - 1-5世紀 - 6-10世紀 - 11-15世紀 - 16世紀 - 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 - 20世紀 - 21世紀. 17世紀後半にはアメリカ大陸に入り、オーストラリアには19世紀前半に展開している。アジアではインドが非常に重要な拠点として、1600年に東インド会社を設立している。, この頃のイギリスのアジア戦略で重要なのは、やはり、清への「アヘン戦争(1840年~1842年)」であろう。これを足掛かりに、清への侵略を進める。清は、この頃大きな版図を持っていたと思われていたが、その実効支配はほとんど及んでいなかった。そのため、イギリスのみならず他のヨーロッパ列強も、どんどん進出が始まってくるのである。19世紀前半でのイギリスのアジア侵略等についての詳細は、「➡江戸時代から見た世界史④~世界帝国イギリスと清と日本~」 を参考にしてほしい。今回は、19世紀後半について記述する。, 19世紀後半のイギリスは、ヴィクトリア女王の時代(1837年~1901年)とぴたり当てはまる。そのため、このイギリスの全盛期は「ヴィクトリア朝」とも呼ばれ、政治・経済・軍事・文化、あらゆるものが「ヴィクトリア朝の~」と形容されるようである。, ヴィクトリア女王の下、イギリスの首相は何代も変わっているが、最も影響力のあったのは「パーマストン子爵」で、この頃のイギリスを象徴する政治家である。1831年~65年の間、10年間を除き首相あるいは外相として、イギリスの外交を推進した。, パーマストンの言葉として、「国家には永遠の友も同盟国もない。あるのは永遠の国益だけだ」とし、とにかく、イギリスの国益のみを追求し続けた。政治姿勢は、ヨーロッパ列強とは勢力均衡を図りながら、東欧やアジアの専制国家に対しては開国と自由貿易を要求するものであった。まさに最強のイギリスを象徴する政治姿勢で、インド支配やアヘン戦争など、力を背景にした支配は苛烈であった。決してアジアに対してだけではない。当時の新興国とはいえ、アメリカに対し言葉の一括で押さえつけたという外交手腕を持つ。 19世紀後半頃(1840年~1900年)の、戦争・紛争を時系列で追った年表と地図を見てほしい。. か.イギリス陸軍は19 世紀後半より医療組織を はじめ軍全体の衛生と食料輸送システムの改善に 取り掛かり,緊急を要する案件には病院における 兵士の食事問題も含んでいた5). イギリス陸軍兵士を対象としたヘルス・ケア 犯人の逮捕と処罰、賠償金を求めたイギリスに対し、薩摩藩の返答は「生麦事件に責任なし」だった。かなり挑戦的な対応だったが、怒ったイギリスも薩摩の船を拿捕するという行為に出た。これもまた、過剰ともいえる対応である。 また、このカテゴリ下にある記事や、あるべきなのにまだない記事の編集に興味がおありでしたら、ぜひ プロジェクトのページ を訪れてみてください。. 19世紀前半の世界帝国イギリスと、アジアについて考える. 3.19世紀の世界. ➡明治維新とヨーロッパ世界【1】 徳川250年間の世界史と、19世紀後半の世界情勢 もう一つはこのころ、イギリスに反抗する現地の闘争が消滅し、イギリス軍がコレラ原生地のベンガル地方からインド内を長距離移動したこと。 その途中のインド中央部では約1万人の部隊のうち約3000人がコレラで死んだという。 しかしその中でも、国際法というものは形作られており、国として機能すればそれなりの対応となっている。そこで、日本の取った対応は、他のアジアとは当初から異なっており、それは列強にとっては認識を改めることとなっただろう。 ➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本 19世紀後半から20世紀初頭にかけての絶頂期に、イギリスは南極を除く全ての大陸に植民地を置いた。 カナダ 18世紀後半のフレンチ・インディアン戦争(フランスとの戦争)にしたイギリスが支配していたが、1867年に自治領となり、カナダ連邦が成立する。 イギリスの歴史(イギリスのれきし)は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド(現在では北アイルランドのみ)より構成される連合王国(イギリス)の歴史である。 その後、清では洪秀全を指導者とする 太平天国の乱 が 起こりました。. 2 「エマ」オースティン(1815年)ちくま2冊2100円. 江戸時代の世界情勢についての4回目である。. 《advanced liquid processing system》⇒多核種除去設備... ©VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. なぜ、4国連合が砲撃したかと言えば、その前年の1863年、先の薩英戦争と同じ年に、長州軍が「攘夷の実行」として、外国船を砲撃したからである(下関事件)。 マイソール王は南部カルナータカに侵攻し、イギリス東インド会社軍と戦争となる。そしてこのマイソール戦争は、第2次1780年、第3次1790年、第4次1799年まで続き、19世紀初頭には、イギリスのマドラス管区として支配され終結した。 そしてイギリスと日本は、後述する1894年の日清戦争を経たのちの1902年に結ばれる、「日英同盟」に至る。「孤高の一国主義」を貫いていたイギリスをして、アジアの日本と同盟に至ることになったのは、日本という国を認めたのみならず、その世界戦略の仲間として利用すべきと判断できるほどの大国であったことを認識したことを象徴している。, しかし、単なる「大国」という理由だけで、同盟はしない。明確な意図がある。それが、次回から触れる「ロシア」である。海洋国家イギリスにとって、5大国の中の対抗馬「ロシア」に対する抑え込みは、非常に重要であった。そしてそれは当然、日本にとっても利害は一致していた。, 次回は、そのロシアと、まさに開国のきっかけと言われるペリーを派遣したアメリカについて記述する。, 高杉晋作が古事記を読み上げた場所に居たかった。 まさに日本の明治維新の頃はパーマストンの外交時代であり、最強のイギリスとのギリギリの中で、後述する「薩英戦争」、「馬関戦争」は起こっているのである。, イギリスのアジア展開について、さらに詳細に見てみる。まずは、添付の地図を見てほしい。, 1600年から「東インド会社」を設立し、その支配を強めていた。「産業革命」が起こると更にインドの重要性が増し、インドで生産したものをイギリスが加工する形となり、富の移転が急速に進む。結果、インドは深刻な貧困に陥るのみならず、手工業的な綿布製品の生産体制は破壊され、社会そのものに深刻な影響を与えていた。, その結果として「セポイの乱」として言われるインドの大反乱(1858年)がおきる。なお今では「セポイの乱」ではなく「インド大反乱」と言われる。これに対しイギリスは圧倒的な武力により制圧し、完全に旧ムガル帝国はここで滅び、イギリスが完全に直接統治を行う「インド帝国」が成立する。国王は、ヴィクトリア女王である。, 清への侵略の方式も基本的には貿易からである。悪名高いアヘンの売りつけから始まり、それを取り締まった清に対して、賠償を突き付けそれを足掛かりに武力で迫るという、いつもの悪辣の手段であった。, 誰が見てもイギリスの横暴としか映らないが、それが実態であった。そして、清は地図上での版図は広いが、歴史的にみてもその統治が徹底したことはなく、全く当事者能力に欠けていた。それを見たイギリス以外の列強も、こぞってその利権を取りに来たのである。清の統治地域も大きく乱れ、清という政府そのものは、北京周辺以外は、あってなしのごときであった、といっていい。, 現在でも本当に思うが、正しい情報が提供されない状態で意思決定が行われている。それが戦時中ともなると、選挙に基づく議会があろうが、何万・何十万・何百万のもの命が奪われるような決断がなされてしまう。逆に「正しい情報」が出ない(出さない)ために起こる、と考えた方がいいように思う。, 現在も「情報」というものに対する疑いを常に持つことが、「正しい判断」のために必要不可欠であると、歴史を見ても思う。独裁国家のように最初から「正しい判断」をする気がない政権には、情報そのものが何の意味も持たないどころか、それを用いて世論を形成する道具とする。今の中国共産党しかり、過去のロシア革命時及びソ連時代のレーニン・スターリンの手法しかり、また、アメリカのルーズベルト政権しかりである。, そして日本である。日本とイギリスの直接的な衝突は、2回ある。1回目は1863年、薩摩藩 対 イギリスの「薩英戦争」、2回目は1864年の長州 対 イギリス・フランス・オランダ・アメリカに対して行った、「馬関戦争(下関戦争を含む)」である。, その内容に触れる前に記述したい。 このページでは、18世紀後半~19世紀初頭のイギリスに関係する略史をまとめます、 ①イギリスと中国. イギリスを含め列強側にこのような交渉を見せつけたことは、非常に重要であった。実際、この交渉は単なる一つの藩の交渉ではなく、国際的な約束として履行されている。, その後、この一連の戦争をきっかけに、長州藩自体が藩政改革に進まざるを得なくなっていく。そして、この年の冬に高杉晋作が行ったのが「これよりは長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と言って始めた、一世一代の大ばくちといえる「功山寺決起(こうざんじけっき)」である。それが成功すると、長州藩は大きく変わり、のちの「薩長同盟」そして、明治維新そのものを方向付けるのである。, 高杉晋作は、この時24歳。そして、その4年後に結核で亡くなる。明治維新では、その他にも大勢の志士が若くして亡くなっているが、やはり早すぎる死であると思わざるを得ない。, 日本自体の記述が長くなってしまったが、当時の交渉状況は見えたと思う。幕府の機能が完全に低下する中、薩摩藩・長州藩が軍事力では劣っていても、独自の交渉を見せて、交渉自体は国際法に基づいて実施した。明らかに賠償額等は不当であったようだが、ヨーロッパ列強の中でも最強のイギリスと戦い、そして毅然と交渉を行いその存在を認めさせたことは、日本がアジアで唯一独立足り得た大きな原動力となった。, このようにして、イギリスは、着々とその世界戦略を広げていく。この頃、もう一つイギリスの優位を決定づけるものを手に入れる。1875年の「スエズ運河」の買収である。地図を見てほしい。, 地図の通り、エジプトに建設中であった運河「スエズ運河」の開通は、ヨーロッパ諸国にとって、アジアに対する航路が劇的に短縮する大変革であった。その短縮による、石炭の量、乗組員の食料、その他考えただけでも、その影響は計り知れない。そのスエズ運河を、イギリスがエジプトから買収したのである。, もともとスエズ運河は、フランスの実業家がエジプトの許可を得て両国の出資の下、1869年に完成したが、6年後の1875年に財政難に陥ったエジプト政府はその持ち株の売却を図った。知らせを聞いた当時のイギリス首相ディズレーリは、フランスに先んじてスエズ運河の株を買収を決断、ロスチャイルド財閥の資金提供を受け、44%の株式を手に入れた。議会の承諾を受けない独断であったが、イギリスにとっての優位を更に固める結果となった。, ベンジャミン・ディズレーリは、ユダヤ人でありながら上り詰めた人である。結果的にユダヤ人の人脈により、同じユダヤ系のロスチャイルド家の情報網を通じて買収劇が成功した。ギリギリの状況だったようで、エジプトが財政難でスエズ運河を売りに出しているという情報がフランスに知られる前に決断する必要に迫られた。